小説「チェリーブロッサム」第31話

2018年2月24日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

* 空母「インドープライズ」の悲劇

僕は荷物を纏めたバッグを片方の肩だけで担ぎ、デリーで1週間ほどお世話になったクマールさんとデリー駅のホームを目指して歩いていた。
「どうでしたかデリーは?」
「カレーも美味しかったし、とても楽しかったです! 帰りも寄りますから!」
帰りのデリー滞在では、クマールさんにガイドの契約はしていなかったが、タイミングが合えば訪ねてみよう。クマールさんの笑顔を見てそう思った。するとクマールさんは、
「戻ったらここに電話してくださいね」
僕は目を輝かしてから
「はいっ!」
と返事をした。
クマールさんはプライベートな電話番号を名刺に書いて渡してくれた。僕は小さい肩掛けの鞄の中に貰った名刺を大事にしまった。
ホームに着くと、バラナシ行きの列車はすでにホームでスタンバイしていて、あちこちのドアからインド人が乗り込んでいた。見渡すとニューデリー駅は無数の路線が入り乱れていて、沢山の列車が発車や到着を繰り返していた。僕はクマールさんに握手をして別れ、車両の扉まで歩き、乗り込んだ。しばらくすると後ろから、
「みなみさーん!」
クマールさんが何かを手に持ってゆっくりと走って来た。手に乗った物をよく見ると、一見大きなキュウリのようにも見えるが、野菜なのか果物なのかもわからないようなものが半分に切られていた。それは瑞々しくキラキラと太陽を浴びて反射していた。僕は手で大げさに、そのキュウリのようなものからの光を隠すようなジェスチャーで、眩しそうにニコニコと笑った。
「なに、そのキラキラは?」
僕は乗り込んだ車両の入り口の中で、ホームにいるクマールサンに向かって話しながらキラキラを受け取った。
「それ、電車で食べてくださ……」
そう言いかけたところで車両は扉を閉めた。そして列車は汽笛を上げると、数えきれないほどの人を乗せゆっくりと走り出した。窓からはまだクマールさんが見えていた。クマールさんは僕に向かい、両手を胸の前で合わせて見送ってくれていた。クマールさんが遠ざかっていくと、ホームにそのキュウリのような物を売っている屋台が見えた。断面を上にして並べられたそのキュウリのような物に、上半身裸の兄ちゃんがバケツから水をばっしゃばっしゃと勢い良く浴びせていた。「ははーん、あれはあのキュウリのような物が乾かないように水をかけているんだな、そうかあのきらきらと光る瑞々しさは、そのまんま水だったんだな。ははは」と言って僕はそのキュウリのような物に「がぶり!」と勢い良く齧りついた。
最後までクマールさんは、流暢な日本語で僕を気遣って手みやげまで持たせてくれた。多分僕が払ったガイド代は、そこそこ良い値段だったのだろう。
そのキュウリのような物を片手に歩くと、すぐに僕の指定席は見つかった。僕はむしゃむしゃと食べながら椅子に座った。この後の目を覆うような悪夢など知らないままに。
「はーなんだこれ、うめー、インドのなんだかわかんねーこれ、うめーなー」
そのよくわからないキュウリのような食べ物は、メロンとキュウリの間のような味がして、びっくりするくらいに美味しかったのだ。僕は「うめーなー」としみじみ言うと、呑気なアホ面をぶらを下げて、インド長距離列車の窓の外に向かい、
「さぁ、すっぱーつ! すんーこー」
と吉幾三風に小さく叫び、本格的な旅の始まりに想いを馳せた。

僕はシートに深く腰をかけ、列車が走る音に耳を澄ませた。軽快に走る列車、揺れる車両、過ぎ去る車窓、僕は有頂天だった。有頂天のあまり、バックパックからバンダナを取り出し頭にくるっと巻いてかっこをつけた。どこからどう見てもこれは旅人だ。ということにしたが、どこか変だった。僕の一存で決めた旅の必須アイテムバンダナ、の魔力で、「あんたにー♪」と世良公則の鼻歌までも放つ。昭和絶頂期を謳歌した、しゃがれた声の世良公則は、僕の頭の中でマイクスタンドを抱えたまま熱く歌っていた。

夜中までの長距離列車。外を見て鼻歌を唱うだけでは飽きてきた。そこで思い出す。そうだ! バッグの中にはハルキが入っている。僕はさっそくバックパックの口を開き、すぐに目についた文庫を取り出した。僕はなんだかうきうきとしてきて、手に持ったその本を優しく見つめた。僕は憧れだけでは終わらせずに、本当にインドにハルキを持って来た。そして1人でこうして旅をしている。そう思うとなんだか少しだけ自分に自信が付いたような気がした。ゆっくりと一枚、そしてまた一枚と、静かにそっとページをめくった。どのページも覚えてしまうくらいに何度も読んだ本だ。なんなら目をつむってだって読んでやるぞ。ん? それはもう「読む」ではなく、「思い出す」だな。感無量に一枚ずつ読み進めていくと、徐々に情景が浮かび上が……。突然僕の身体に異変が起きた。どこからかともなく騒がしい音が聞こえてきたのだった。え、何? 何この音? 何のスイッチ押した? おれ? 誰? 何? しかし周りを見回すが僕以外乗客は誰もいない。「はっ!」と次の瞬間、僕は腹に猛烈なきりきり痛を覚え、頭を垂れた。そう僕だった。
音の発生源は僕の腹だったのだ。突如僕の腹で夏祭りが始まった。太鼓の鈍音ドンドンドン、甲高いお囃子ぴーひゃらら、盆踊りどんぱんぱん! そうお腹が悲鳴を上げて壊れたのだ! 食あたり? いやおかしい、昨日の夜から変な物なにも口にしてないのに……。あ、そうだ! ホームでクマールさんがくれた、あのキュウリみたいやつ、あの屋台の兄ちゃん、水桶から水ばっしゃばしゃにかけてたぞ……。あの水、か……。「どこのチンピラだっ⁈ ゔ……」と、突然歌舞伎町の街中で、チンピラにナイフで刺されて倒れるヤクザを演じ出した。手のひらを腹の傷口に当て、その手を顔の前に持ち上げた「な! なんじゃこり…」と言いかけた時、血など付いているわけも無い手の平を、表や裏にくるくると返しながら「おかしいな?」と言っていた。当たり前である。水あたりで血は流れない。茶番はもういい、本気でやばいぞこのおれの腹……。

僕が聞いたインドの旅最重要項目。識者達からもなにより絶対に守れ! と苦言を呈されていた「水」そう水のことだった。「インドの水はマジでやばいぞ、当たると死ぬぞ」と、まるで銃で撃たれるなよ。とでも言い出しそうに識者は忠告をしていた。そんな大事なことを忘却の向こうにニコニコと食べたあのキュウリみたいなもの。で、結局なんて食べ物なんだよあれ……。あまりの腹の激痛に、一体なにが起きたのかパニックになった気の弱い僕は、本気で死まで予感し始めた。しかし心配要りません、ただの水あたりですから。僕は「もーなにこれー」と言って列車のトイレまで内股で急いだ。

内股の僕の頭の中は「死」で一杯だった「これは新種のコレラか? 新種の熱病か……?」何度も言うが、ただの水あたりである。僕はトイレを見つけて慌てて走り込み、勢いよく扉を開けると、勢いが良過ぎてまた扉が閉じそうになったところを、腰を預けてねじり込み、ようやく空母「インドープライズ」に燃料ぎりぎりで到着した手負いの戦闘機は、フラフラと頼りなく内股でズボンを脱ぎながら着艦し、汗だくでパンツを下ろした。便座前の計器は激しく鳴り響いていた。僕はそのあと経験したこともないような、推進力を経験し、お尻の中心から愛を叫んだ。
ひとしきり愛を叫ぶとなんとか動けそうになり、席にもど……れず、戦闘機はインドープライズへ華麗にインメルマンターンを極める。を数度繰り返し、ようやく座席で横になれた。僕は応急処置として持っていたミネラルウオーターの水を1本、ほぼ一気に飲み干した。しばらくすると悪寒がしてきて、僕は毛布に包まって寝た。

つづく

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