小説「チェリーブロッサム」第20話

2018年1月20日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

* AIR INDIA

初めて体感した飛行機の離陸は、信じられないほどの加速を体感させてくれた。この巨体がいとも簡単にこれだけの加速をする「これは神に背いた文明だ。しかしおれが乗っているから大丈夫だ、安心してその翼に揚力を溜め込み空へと羽ばたくのだ」僕は目の前のシートのヘッドレストの先端を両手で強く握りしめながら、ぶつぶつと呟いていた。そしてさらに飛行機は今までとは桁違いの加速を見せて急激に機体の角度を持ち上げて行く。
「なんだこの加速は! 我々の技術は30年は遅れているぞっ!」
さらに加速が僕をシートの背中に押し付けようとする。
「え? なになに? オレを宇宙にまで連れて行く気かっ⁈」
飛行機の離陸に興奮した僕は、うるさかった。両方の肘掛けに必死にしがみつき、1人でうるさく喋る日本人を見ていた隣のインド人の乗客が「?」と言ってこちらを見た。その気配に僕も振り向くと、その乗客と目が合った。しかし約2秒間ほど気まずく見つめ合ったが、またお互い自分の目の前に視線を戻した。

飛行機は、凄まじい加速を僕に味合わせたあとは、ありえない高度まで一気に飛び上がった。僕の耳は気圧に耐えられず「キーン」と鼓膜を振動させたが、僕はそんな状況も楽しんだ。飛行機が安定した高度で飛び始めると、僕は広がる上空からの光景に目を奪われ、窓におでこをぴたっと付けながら窓の外を楽しんでいると、目的を忘れた。「あー、沖縄か、あー、あったかいのかな、あー、泳げるのかなー」とおでこを窓にべったりと張り付かせ、キャビンアテンダントの訛を真似ながら言った。日本列島の真ん中を、馬ノ背のように盛り上がり渡る山並みを見下ろして飛行機は飛び、しばらくすると急激にインド大陸の方向へ機体を傾けて行った。僕は重力でさらにおでこを窓に強く押し付けると、僕の意識はようやく沖縄から戻ってきた。

ようやく興奮も落ち着いてくると、改めて機内を見渡した。ほとんどがインド人で、乗客はそれほど多くもなく閑散としていた。しかしキャビンアテンドは右に左に、前に後ろにとせわしなくドリンクなどを配っていた。
「ナニ カ ノミモノ ハ?」と聞かれたので、リンゴジュースにした。ビールといきたいところだったが、初めての飛行機、緊張感を欠かないように控えた。僕はとっても保守的で律儀な男なのだ。目的は旅だ。そう再度心に言い聞かせた。
しばらくすると、暖かそうな湯気を出した機内食が目の前に用意された。包装のアルミシートを外すと、黄色く炒められた野菜と、日本でもおなじみの見た目の、トマト色のチキンカレーと、見たことも無い長い形状のご飯が美味しそうに湯気をたてていた。あとはヨーグルトが付いていた。信じられないくらいのスパイシーな香りをさせていた機内食に「ぎゅるぐるるるる、るるるー」と、お腹を鳴らせた。華奢ですぐにでも折れてしまいそうなプラスチックのスプーンを手に取り、まずはチキンカレーをすくい、口に放り入れた。
「ん?」
「え?」
あれ、なんだ? このほろ苦い失恋感は……。もう一度華奢なプラスチックのスプーンで今度は多めの量をすくい、チキンと一緒に口に放り入れた。
「んふー……」
とやる気のない鼻息を立て、僕は表情を雲らせた。塩味以外あまりしなかった。冴えない味がしたのだった。僕はショックで思わず俯いた。

日本のインドカレーレストランで、僕は何度もカレーを食べた。看板には「本場インドの!」と書いてあったし、シェフはインド人だった。出てくる料理はフカフカのナンに濃厚でバターの利いたうまみたっぷりのカレー。ボリュームのある柔らかいお肉。日本でこれなのだ、本場のカレーなんかを食べたら一体どうなってしまうんだ。僕はレストランのテーブルで両手を組み、神妙な表情でインド本土のカレーを想像したのだ。
機内食と言えど、インド人が食べる本物の食事のはず。それはもう脳天を突き抜けるような濃厚なうまみ満載に違いない。どんなものが出て来てしまうのか、一体僕はどうなってしまうのか、そんな間違った認識で機内食を楽しみにしていたのだ。日本のレストランに出てくるような濃厚なカレーを現地インド人が頻繁に食べることなどは無かった。まさにインド標準のご飯が目の前に出されていたのだった。

食べた機内食に対して、「そうか、きっとこれが現地のカレーなんだろうな」と僕はしょんぼりした気持ちになり、期待値ツマミを少しだけミニマムに回し、ボリュームを下げた。
隅々まで嘗め尽くして完食したあと、僕は目をキラキラとさせ大満足をしていた。一口めはあまりにも日本のレストランのカレーと違うので僕は俯いたが、食べ進めるたびに僕の味覚の何かが変わった。さらさらのカレーは口に入れるほど癖になり、お米と一緒にするっと喉を通る。粘り気の少ない特性の長いお米は、このカレーにとても合っていた。まさにナイスコンビだった。スパイシーな香りはさらに食欲を増幅させ、気がつけば一気に完食をしていた。なにこれどんな魔法? 僕は腕を組んで、空になった器に顔を斜めにして睨んだ。ここまで一気に食べさせる現地インドカレー。今度は左手を右肘の下に当て、垂直に立てた右手の親指と人差し指であごをつまみながら首を傾かせ、「んー」と唸った。唸り終わると僕は一気に機嫌を取り戻し、にこやかに顔を上げ、これからのインドの旅で出会えるカレーに胸を躍らせた。
最後に、キャビンアテンダントが笑顔で置いていった、ヒンディー語の並んだパッケージのリンゴジュースを飲み干し、「ふーっ」と一息ついていると、ずっと前のほうの座席で立ち上がっている人が目に入った。自分と同じような年齢で、きっと旅行者だろうという日本人の男性の姿だった。自分が座った席から確認できる日本人は彼だけだった。

到着地デリーまであとわずかになった頃、目下にヒマラヤの山並が見えてきた。さすがにエベレストという名前くらいは知っていたが、どれがエベレストなのかはさっぱりわからなかった。空から見た雄大なヒマラヤ山脈は、目に見える全てが、そこが地球とは思えないような複雑な造形をしていた。あんなところを登ったり降りたりするために世界中から登山家が集まって来る。いったいどんな心境なのだろう。これからインドを旅する僕のこの心境と、何か近いものがあるのだろうか。
機内で上映されていた、カラフルで派手な映画が画面から消えると、案内表示へと映り変わった。あと20分で目的地、インディラ・ガンディー国際空港なのだと画面は伝えていた。

滑走路に向かい機体は急激に高度を下げ、ランディング体制に入った。そしてまっすぐ揺らぎ無く静かにアスファルトにタイヤのゴムを接触させると、機体は表情も変えず「いつものことですから」と言わんばかりに、滑走路の中央に威風堂々と着陸した。

徐行する滑走路の脇では赤茶けた畑が無造作に続き、そこに従事する人々がぱらぱらとこちらに向かって手を振るのが見えた。その光景を見た瞬間、僕は不思議と「懐かしい」と感じた。それは僕がまだ子供の頃の、ずっとずっとむかしの記憶が刺激されたような感覚だった。その感覚は、僕の胸の中の何かの引き出しを開けるのではないか、そんな気がした。着陸してすぐにこんな気持ちになるなんて。やはりインドには何かある。そんな期待に思考を巡らせていた。
ボーイング747の巨大な機体は、到着ロビーのドッグへとゆっくりと速度を落としながら進み、そして静かに接岸した。想像していたよりも遥かに静かで揺るぎない優雅な着陸ショーは、長時間のフライトであんぽんたんに眠った僕の旅する細胞を再び揺り動かすには、十分な体験だった。

ようやく目的地に到着したエアインディアは、長旅で疲れた機体の両翼の熱を冷ますように佇み、次々と到着ロビーへ乗客を吐出した。飛行機のエンジンはまだアイドリング運転を続けていた。約10時間のフライトを終え、僕はインドへやってきた。いよいよ僕の旅が始まろうとしていた。
「よしっ!」
と言っシートベルトを外し、颯爽と席を立ち上がった。

つづく

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