小説「チェリーブロッサム」第51話

2018年8月9日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

* ある高齢の男性との話

 ひとしきり泣いたあと顔を上げると、会場も静かになっていた。まだ隣にいてくれていたニヤリ兄ちゃんが僕の肩を叩いた。

「オイミロ」

ニヤリ兄ちゃんは言った。

 高砂を見ると、既に新郎は親族と一緒に連なって玉座に座っていた。纏っていた衣装はとても華やかだった。新郎隣の席は空いたままで、今からそこに新婦が現れて座るのだということがわかった。いよいよ式が始まるようだ。僕は身を乗り出して食い入るように見た。そして何枚かシャッターを押したあとカメラを椅子に置いた。ただ何もせず僕の気持ちの全部で見たかったのだ。しばらくすると新婦が現れた。僕は言葉を失う。それまでの旅で見たどんな見所よりも荘厳で神々しい衣装を纏った新婦。様々な装飾を身につけた新婦の表情もくらっとするほど美しかった。2人が玉座に座ると式は始まった。僕は終始見とれていた。沢山の人が玉座の周りに集まり何か儀式をしているようだった。僕は離れた所に移りその様子を眺めた。

 すると、ニヤリ兄ちゃんが見当たらなくなっていたことに気がついた。どこにいったのかと周りを見ると、会場の奥の方で座っている高齢の男性に、身を屈めるように話しをしていた。その高齢の男性からは思慮深い気配が感じ取れた。ニヤリ兄ちゃんの表情を見ると尊敬されている存在なのだというのが遠目ながらも理解できた。

 話をやめたニヤリ兄ちゃんが僕の所まできて、真面目な顔で「コイ」と言った。僕はなんだ、何かやらかしてしまったのか? 泣きすぎてうるさかったか? びくびくと後をついていった。その高齢の男性の前に来ると、その男性は流暢な日本語で話しをしてくれた。日本人が経営する会社で、長い間働いていたということだった。男性はいくつかの質問を僕にしたあと、話しをはじめた。

「青年よ、座りなさい」

「はい」

「あなたは、どうしてそんなに泣いていたのですか?」

「え……、まあ、それはちょっと……」

 僕はちょっとどころではない、ゆり子を失った喪失感にぼこぼこに打ちのめされていた……。

「愛する人はいますか?」

 僕ははっとした。この老人は人の心が読めるのか……? 僕が今思い悩んでいることも、すべて伝わっているのでは。そう感じ、言葉が出ずにもじもじとしていると。

「言えよ」

 とニヒル兄ちゃんが言った。

「ん……? 今日本語言った? 日本語言ったよね⁈」

「おれ、ちょっと使える」

「え? 使えるの⁈」

「おれはこの人の孫、じいちゃんから教わった。けど普段は人前では使わない。妬む奴も多い。日本語はインド人ならいつか生きる為の役に立つ、日本人はとても親切だ、出会ったら優しくしろって、そうじいちゃんにいつも言われてる」

 ちょっとどころではない日本語を話す兄ちゃんに、僕はますますこの会場の居心地が良くなるのを感じた。

「あなたは愛とは何だと思いますか?」

 と高齢の男性が言った。

「…………、よくわからないんです。けれどこの場で僕は、沢山の喜びを感じました。とても嬉しくて満たされた想いがしています」

 僕は高齢の男性の目を見て言った。

「親からの愛というものを知らずに僕は育ちました。僕は親を恨んでいるのかもしれません……。そして大人になって愛というものがあると知りました。けど、どう取り扱っていいかまったく分からなくて、僕に優しく歩み寄ってくれている女性をとても傷つけました。おそらくその女性が見せてくれたものが「愛」なのでは、と思っています。しかし、このインドで彼女の気持ちを……、彼女との繋がりを失いました」

「そうですか、それは辛い人生でしたね。あなたは今誰かを、誰かの気持ちを失ったのですね……。もうそれは取り戻せませんか?」

 高齢の男性は僕を優しい慈しみの眼差しでそう言った。

「彼女は今、僕じゃない人と向き合おうとしています。しかし僕はその女性に対して大きな感謝と愛情を感じています。彼女から受けたものは深い愛情でした。彼女が大事な存在だったことに気がつきました。僕は彼女のことが大事です。しかしもうそれは遅いのです……」

「それを、その気持ちを伝えることはもうできないのですか? 先ほどからのあなたを見ていると、あなたは今ここで自分の気持ちと繋がっているのではないですか? もしそうならそれはあなたの真実の気持ちです。そこには何が見えますか? 人は自分と繋がる為に旅をします。人と繋がる為に旅をします。繋がることがあなたの人生です。その時、どんな結果も受け入れられるのです」

「はい……」

 僕はまた涙を流した。静かに涙を流し続けた。

「あなたは今誰に何を伝えたいですか」

「…………」

「その想いがあなたの真実です」

「でも、伝えてももう、もう無駄です……」

「無駄でもいいのです。伝えた後、どんな結果でも真実の涙が流れます。自分の心と繋がった時に伝えた言葉で、初めて真実のあなたの涙は流れるのです。伝えなさい。自分の為に」

 僕は胸を搔き毟られた思いで立ち上がった。そうだこの人が言ってくれたように伝えよう本当の気持ちを。ゆり子のことが大事だということを。

 僕は立ち上がり、話をしてくれた高齢の男性に向かい、大きくくの字に折り曲がり、膝におでこを付ける勢いで「あ、あり、ありがぼう、ご、ございまじだ!」と鼻水まで垂らしながら言葉にならない嗚咽で挨拶をした。

 僕の想いが伝わったのか、高齢の男性はずっと僕に笑顔を向けてくれていた。そして僕は走り出そうと後ろを振り向いた瞬間、目の前は何重もの人だかりになっていた。みんなが僕と高齢の男性の話を聞いていたようだった。そこには新郎新婦さんまでいる、僕はそんなことになっているなんてまったく気がつかなかくて、怯んで棒立ちにその光景を眺めていた。ニヒル兄ちゃんが僕の隣に来て、会話をみんなに同時通訳で伝えていた。と話してくれて、ようやく意味を理解した。僕は敬意を込めて集まってくれた人々に対して、再度大きな「くの字」の挨拶をした。一呼吸置いて起き上がってみると、みんなが僕に向けて、ぺたんとくの字になっていた。それはとても奇麗なぺたんとしたくの字だった。さすがヨガの国、みんな体が柔らかかった。見事に全員が膝に顔をつけていた! もはやそれは「く」ではなく、見事な「り」だった。いやいやそこじゃない、そこに驚いている場合じゃない! これが日本式の挨拶だと思われてしまうじゃないか! あのエロ兄ちゃんとの間違った登頂をまた繰り返してしまう。僕はまたなにか歪んだ認識を伝えてしまったのか? 不安がよぎる……。そんな心配事に気を揉んでいると、

「行けーっ!」

 とニヒル兄ちゃんが僕に向かって叫んでいた。すると人だかりになっていた人々も、真似た日本語で「行けーっ!」と一斉に僕に叫んでいた! 僕の胸は熱くなり、走って会場からの階段を一気にかけ上り、僕の部屋の携帯電話を目指して走った! そして宿の入り口が見えてきたとき、後方に騒がしさを感じ、ふと振り返ると、地下にいたはずの沢山のインド人が、僕のあとを追って走ってきていた。振り返ると、みんなが大きく手を振ったり踊ったりでエールを送ってくれていた。言葉など何もわからなかったが、みんなの後押しの気持ちが伝わっててき、僕はまた顔をぐしゃぐしゃに泣いた。

「ナマステーッ!」

 と僕は声の限り叫んだ。みんなは笑顔で行け行けと手を振っていた。よく見るとナン兄ちゃんもナンを振りかざし、くるくる回しながら叫んでいる、新郎は新婦を抱き上げて二人で大きく手を振ってくれている。「おまえらの気持ち、受け取ったぜ」そう小さく呟くと、僕はもう振り返らずに宿に走った。フロントの前を過ぎ去ろうとしたとき、フロントのシンさんが「ナンダ、ナニ ガ ナマステ ナンダ⁈」と叫んでいたが、それを真顔で片手だけ挙げて挨拶し、さらに走った。

 部屋に着きドアを思いきり開けると、そのまま閉める時間も惜しんで自分の荷物へと走り寄った。ゆり子の告白を聞いたあと、こんな携帯折ってやろうかと思ったが、やはり勇気がなくて再びバッグの奥にしまっていた。僕は少しでも早く電話を取るために、バッグを逆さまに持ち上げて、全ての荷物を一気に吐き出させた。そしてまき散らした荷物を掻き分けて、携帯電話を手に取った。しかしホームスイッチを押すと電源が切れていた。僕は震える手でわなわなとコードを携帯電話に繋いだ。僕はまた涙を流しながら、ゆり子のことを思い出していた。ゆり子と話しがしたかった、話がしたい……。そしてようやく携帯電話の電源が入った。もしまだ間に合うのなら……。というかすかな期待が、とんでもない重さで僕の心にのしかかった。震える手でゆり子に電話をかけた。

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