Written by 宍戸竜二 オフィシャルサイト

llustration & novel
✧ ハピネス ✧

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 海辺の町の、車も通れないような細い道。僕らはいつものように指先を軽くつなぎ、肩を寄せたり離したり、気ままに街を歩いた。交差点の青信号の点滅に気がつくと、僕らは手をつないだまま国道を小走りで渡り、一つ裏の線路沿いの路地へと向かう。ガードに沿って進むと、人だけが通れるような小さなトンネルがあって、そこを抜けると鮮やかな緑が萌え迫る、山の一端が視界のすべてを奪った。地図でも目立たないような小さな山なのだけれど、その光景に出会うたびに僕は少しだけたじろぎ、その歩幅を狭めた。彼女は山に見惚れている僕の顔を覗き込みながら、つないだ手をゆっくりと引き寄せた。僕らは目を合わせると表情を緩め、また同じ歩幅で歩き出す。触れる彼女の指先はいつでもしなやかに潤んでいた。

「人はね、少しの触れ合う感触だけでも、言葉にならないような思いを交わせるの」

 彼女と初めて手をつないだ日、僕の目をまっすぐに見つめながら、何かを確かめるようにそう言った。言い終えると彼女は照れくさそうにほっぺを膨らまし、眉をしかめた。その顔がおかしくて、「あは」と笑いながら両方の人差し指でそのほっぺを潰すと、「プププ」と口先が鳴った。彼女の頬は、じんわりと淡い赤色に染まった。ちょうど僕が40歳になったその日のことを、歩きながらぼんやりと思い返していた。

「何かあたしのこと考えてたでしょ?」と僕のぼんやりの顔を少しだけ上目遣いに見るとそう言った。僕はほっぺを膨らますと、彼女に向けて眉をしかめ、手を離して逃げるように早足で歩いた。僕が何を考えていたのかがわかったようで、「ああ、また!」と言って追いかけてきて、「もう」といって口を尖らせた。初めて手をつないだ日、彼女はそのときどうしてあんな表情をしたのか、今でもよく分からないと言う。彼女は僕の腕を両手で捕まえると、今度は指を絡ませるように手を結んだ。緑の中に歩み進めると、山全体が叫んでいるかのように蝉は怒声をあげ、僕らの耳をつんざいた。その声は、今が夏の頂点だと訴えているかのようだった。

 日差しの中を歩き続けると、額の滲んだ汗は次第に雫になって流れた。それに気づいた彼女は「止まって」と言って僕を止めると、絹の生地のハンカチでその汗を拭った。その間、視線は彼女の胸元に止まる。小さな鎖のネックレスの先には、手打ちの真鍮の月がキラキラと夏の日差しを反射させていた。彼女は真っ白なワンピースを纏うように身につけていて、くるぶし丈のその裾は、歩くたびに意思でもあるかのように翻った。

 坂道を進むと、遠くの街の建物の合間からは相模湾の海原が青く覗き出す。海は絵の具なんかではとても表せられないような力強い紺碧をしていて、その深い青の海を見つめていると、そこに吸い込まれてしまうんじゃないかという思いに駆られる。気がつくと、僕は足を前に出すことを忘れている。何かに心が引き寄せられると、僕はすぐに足を止めた。彼女はそんな僕を見るたびに、いつでもこの手を優しく引き寄せた。

 道は次第に大きなカーブを描き、山の奥へと続いていく。道を挟むように、樹齢の深い桜並木が海や山や空に向かって気ままに枝を伸ばしていて、地面には様々な濃度の夏の木陰が落ちた。秋になり冬になり、花が咲く季節になると、この道はさくら色に染まる春の道となる。彼女と二人でその道を歩く度に、互いの胸の内側の距離は少しづつ縮まった。

 その先の僕らがいつも目指す場所には、小さな石碑と無造作なテラスがあった。そこから遠くを見渡すと、遮るものなんて何もなかったから、相模湾と僕らが住む海辺の街が一望に見下ろせた。海岸線には、街と海との境界線を消すようにバイパスが走っていて、それはまるで海に浮かぶ街のようだった。僕らは腰ほどの高さのフェンスに寄りかかり、いくつかの小さな話をして、笑ったりお互いに触れたりした。会話が途切れると、山の音の合間に入り込む街の音に耳を澄まし、ゆっくりと大きく流れる潮の道筋を眺めた。木陰と日差しを交互に抜ける風が小さく僕らの周りをすり抜けると、彼女の頬で遊ぶ髪を揺らした。

 潮の流れを見つめ続けていると、次第に焦点はずれていき、意識は遠い昔へと遡った。僕は母の背中にしがみついていて、振り返ると父は僕に向かって微笑んでいた。母の背中はとても暖かく、僕はただただ安心だった。その思いは次第に胸の中を優しく掴むような感触となり、逃さないようにその感覚の道筋をたどっていくと、遠くから僕のことを呼ぶ声のようなものが聞こえてきた。気がつくともうそこに母の背中はなく、青い海を背にした彼女が僕を見つめていた。

 いつものようにコンクリートのテラスに寝転がると、手のひらを枕にして彼女に視線を送った。彼女もワンピースの裾をさっと翻し、隣で寝転る。蝉の叫び声は、さらに張り裂けそうに体を震わせ、僕らの耳を吹き飛ばそうとしているように思えた。そのヤケにも思える絶叫に、だんだんとおかしさが込み上げる。耳をふさぎながら視線だけを隣に向けると、目が合った彼女も同じようにおかしそうだった。

 山の合間から伸びた濃度の高い真っ白な雲たちは、その力を見せつけるように、さらに空へと盛り上がっていった。夏のすごい雲。

 するとそのテラスの脇を軽トラックが通りかかった。荷台には収穫されたみかんと、隣の家に住む年配の女性が座っていた。彼女は僕らに手を振ってニコニコと微笑むと、同じように耳に手を当てながら街へと降りて行った。

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