小説「チェリーブロッサム」第47話

2018年6月26日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

* 朱里の嘘と、タモリセンチメンタル

宿への帰りに道ばたの売店で休憩をしていると、エロ兄ちゃんが珍しく僕にジュースを買ってくれた。Limcaだった。落ち込んでた僕への気遣いだろうか。とても嬉しくて僕は「えへ」と遠慮気味に笑いながら受け取った。旅の間にもう何本Limcaを飲んだかわからない。この旅に無くてはならない味となっていた。レモンの酸っぱさと炭酸は暑さで疲れた体にも力を吹き込んでくれる。ラッシーと共に、僕の飲み物事情を力強く支えてくれる大事な味方だった。
二人で乾杯をして、瓶のまま立ち飲みをしていると、店のお姉さんがあるバイク雑誌を進めてきた。それは、中身の半分ほどの記事が日本語で書かれている「TheBIKE」という雑誌だった。おそらく日本人の僕のTシャツに「kawasaki」と小さくプリントしてあったからだろう。僕がこの地へ持ってきた唯一の真っ白以外のTシャツだった。とはいえロゴ以外は真っ白だったのだが……。僕はそんな雑誌があることにびっくりしたが、バイク雑誌が読めることが嬉しくて、思わず購入した。しかしその雑誌には、僕の知りたくない、ことが書かれていた。朱里のことだった。

インドには、日本の大手バイクメーカーや、沢山のレース関連の会社が、市場規模拡大の為に勢いよく進出していた。そしてここアグラでは、沢山の日本人が働いているということもあり、日本語で読めるような雑誌が発売されていたようだ。バイク雑誌にしては分厚くて、中古車情報から、世界のレース情報まで、バイクのことならなんでも取り上げていた。
何気なくぱらぱらとページをめくっていると、朱里が言っていたインドのレーシングパーツのメーカー「IDM」の記事が載っていた。タイアップ広告のような記事で「日本のレーシングチーム、プラススピードと合同で開発」という見出しで製品のラインナップが掲載されていた。そこにはモデルのようなポーズをとり、レーシングスーツのファスナーを胸の辺りまで下ろした、艶かしい朱里の写真が大きく使われていた。僕はその写真を見た瞬間に複雑な気持ちになった。僕の知らないところで、僕の彼女が胸のファスナーを下ろしている。それは僕にとってあまり気持ちの良いものではなかった。
他にも全日本選手権でのライディングシーンの写真や、レーシングスーツを着てヘルメットを片手に持った朱里が、仲良さそうに男性ライダーにしがみついている写真が載っていた。男性ライダーは朱里のチームメイトらしく、コンビを組んで2シーズンを戦ったと記事には書いてあった。読み進めると、「二人はレースではライバルだけど、プライベートではお互い大事な存在なの。二人で頻繁にサーキットに行ってカーレースを見たり、サーキット以外にもよくドライブなどに行ったりするわ。私たち温泉が大好きなの。日本の温泉はとても素敵よ。だから私たちがレースでトップを追いかけているときに、お互いのスリップストリームを使い合ってトップスピードを上げるコンビネーションは最高なのよ」と朱里の台詞として書かれてあった。そしてチームメイトのその彼は、すらっと背が高く、茶色い髪でゴルゴ13のようなサングラスを頭に乗せていた。薄ら笑う表情は、ビーチで女性の水着に目をやるような軽々しさだった。しかし全日本ライダーというブランドは、一流のアスリートという証だった。僕にその彼に勝てそうな要素はなかった。しいて言えば、インドの水だって飲めるくらいの丈夫な胃袋……。僕は虚しくなった。そしてその彼のライディングに負けないくらいのスピードで落ち込んでいった。
その記事に書かれている内容はおそらく本当だろう。何でも正直に言う朱里の生き方に付いていかれないことも沢山あるけれど、自分のプライベートまでを書いた記事で嘘を言うようにも思えなかった。だからと言って僕との関係を書くとも思えないし、僕には判断がつかなかった。
朱里からチームメイトのライダーのことなど聞いたこともなかったし、僕から聞いても「ライバルよ」としか言わなかった。朱里は正直ではなかったのだろうか。僕が朱里とプライベートでは逢えることはほとんどなかった。逢いたいと言っても、いつも飛び回っている朱里を捕まえるのは至難の業だったし、朱里から遊ぼうなんてまず言わない。それでも朱里は、僕とは会わなくても、その男性ライダーとは頻繁に逢っていた。
どこまで信憑性があるかわからない、今すぐにでも朱里に話しを聞きたかったけれど、もうそんなことを聞く気力も僕にはなく、その彼が恋人かどうかなんてどうでもよくなっていた。しかしこんな現実を知ってしまっても、まだ体のどこかの一部が朱里に強く引っ張られていて、その感覚が僕を苦しめた。この感覚から逃れられないかぎり、僕の人生は幸せには向かわない。この記事を読んでそれを強く感じた。
昨日はゆり子の話しを聞いて背骨が抜けてしまい、今日は朱里の記事を見て、内蔵が抜き取られたような感覚になった。今の僕はうすっぺらだった。
僕はそうしてくにゃんくにゃんの空っぽになり、そのまま車までくにゃくにゃと移動した。

「ダイジョウブ カ?」
エロ兄ちゃんは、くにゃくにゃと車に戻ってきた僕の目が明らかに死んでいたのを見て心配してくれた。
「プロブレム……」
とだけ言って僕はくにゃっと車に乗り込んだ。シートに座ると窓のへりに腕を重ね、そこに顔を乗せて外の風景に視線を向けた。車が走り出すと、熱い風が僕の顔に優しくあたり、街の景色は彩り鮮やかに表情を変えていった。
昨日ゆり子から彼のことを聞かされた。僕はゆり子への気持ちに蹴りをつけようと決めた。そして今日は、知りたくなかった朱里の現実を突きつけられた。きっと直接聞いたところで、この記事と同じことを聞かされるだけだろう。「私たち温泉が大好きなの」と。もし違ったとしても……僕はもう朱里とこのまま続けることは無いだろうと考えていた。朱里と一緒にいるために必要な、何か大きな物を無くした感覚が僕にそう思わせていた。今僕の中にある本音のどこをほじくっても、朱里への気持ちは見つかりそうになかった。その事実は僕の気持ちをどこかほっとさせていた。
僕と朱里との繋がりもこれで無くなったということか……。
「……イ、オイ、オイッ!」
宿の前に着いて、エロ兄ちゃんが何度も僕を呼んでいた。
「ん?」
僕はまだまだ生き返りそうも無い目でエロ兄ちゃんの方を振り向き、なんとなくな返事をした。
「ジンセイ ハ ノープロブレム ダッ!」
そう言ったエロ兄ちゃんは、両手を広げ頭の上で大きな輪と笑顔を作っていた。まるで「笑っていいとも」のタモリを思わせるような大きな「輪」だった。ぺたっと撫でたような髪型でサングラスをしていたエロ兄ちゃんは、見た目までもタモリのようだった。エロ兄ちゃんはそのポーズのままニカッっと笑った。初めて見たエロ兄ちゃんの前歯には、タモリと同じように大きく隙間が空いていて、その姿はまさにタモリ、タモさんの光臨だった。日本でだってタモリになんか会ったこともない、まさかこんなインドで会えるなんて夢にも思ってなかった。エロ兄ちゃんが神々しくさえ見えた。エロ兄ちゃんとは一週間程度の単なるガイドとお客様としての付き合いだけど、いつでもどこへでも好きな所へ連れて行ってくれて、僕が落ち込んだらタモリにもなってくれる。そしてなぜ「ジンセイ ハ ノープロブレム ダ」のポーズが、頭の上で大きな「輪」なのかはよくわからないけれど、僕はその気持ちがとても嬉しかった。ここインドでも安心できる場所を見つけた。そんな気がしていた。
「タモさんありがとう! タモさんありがとうーっ!」
僕は車を降りるとエロ兄ちゃんに向かってそう叫びながら宿へ歩いて行った。エロ兄ちゃんは、タモさんと言われても、意味がわかるわけもなく、
「エ? エ? エッ⁈」
とずっと大きな声で僕に聞き返していたが、僕は気分も取り直したので、それを無視して良い気分で宿の扉の中に入った。
扉の外からは、エロ兄ちゃんが車で走り去る音がした。けたたましいクラクションを鳴らしながら。きっとあれは僕への挨拶のクラクションなんだ。あらためてクラクションの音を耳で感じていると、とてもセンチメンタルな気持ちになった。僕はさらに安心した気持ちになった。
インドにはじめて来た日、あのクラクションのけたたましさに驚いて、天井に頭をぶつけそうになりながら僕の旅は始まった。そして今はそのクラクションの音が僕の気持ちを安心させてくれている。僕のこの旅を集約した、忘れたくないエピソードとなった。

つづく

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