小説「チェリーブロッサム」第53話

2018年9月15日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

   * 禊 

 僕は再びデリーに戻っていた。初めてこの地を踏んだときに見たこの景色と喧噪は、今僕が見ているこの景色と喧噪と、何一つ変わっていないはずだったけれど、僕が今この街を見た印象はまるで違っていた。僕の何かが変わったのだろうか。いや、元々僕の中にあった沢山のことを、僕自身がこの旅で気づくことができた、ということなのかもしれない。僕は自分がどこか少しだけ大人になれたような気がした。それは僕の目に映る景色さえも変えていた。

 明日はいよいよ帰国の日だった。

 翌朝僕は早めに宿をチェックアウトし、空港に行く時間までの間、旅の最後の「余韻」と思い、このデリーの街を目に焼き付けるように街をぶらぶらとしていた。肩に食い込む荷物の重さにもすっかり慣れてはいたが、今日で旅が終わる、そう思うと忘れていたかのようにまたその重さをずっしりと感じていた。しかし僕はこの重さにさえも愛着を感じていた。

 僕は無理と一番人通りの多いところまでゆき、誰にも迷惑のかからないような壁に荷物を降ろして立てかけた。その壁に立ったまま寄りかかり、全身に街の喧噪を浴びながら僕は佇んだ。それはまるで旅を終える為の「禊」のように感じられた。僕はとても心地のいいものを感じていた。街は相変わらず人や物でごった返していて、人々はせわしなく移動し大声で会話をしていた。かと思えばたむろして静かにしている人たちも少なくなかった。クラクションはあちこちで心地よく鳴り響き、車は列をなして走っていた。そしてこの午前中のからっとした日差しは、まだ人々を精力的に動かしていた。午後になればそれは茹だるような熱波に変わり、人々はきっとチャイでも飲んで一休みすることだろう。「喧噪」という言葉がこれほどぴったりな光景も世の中そうはないだろうと思い、僕は今度は目を瞑り、耳だけでこの喧噪を感じていた。そしてゆっくりと目を開くと、また目映い街の景色が僕の目に写り込んできた。僕はニコンを片手だけで簡単に構え、カシャ。とシャッターを切った。その音は、この旅で聞いた何千回のどの音よりも、潤んだ音に聴こえた。それが僕がインドで撮った最後の写真となった。

 空港へは、僕の旅をたっぷりとサポートしてくれたあのエロ兄ちゃんが、「カエリ ノ クウコウ マデ オクッテ イク ゼ」と当然仕事としてだが申し出てくれた。アグラに自宅のあるエロ兄ちゃんは、「オマエ ヲ オクッタ アト、イエ ニ カエル」と言って、ウインクしながら女友達の家に遊びに行った。エロ兄ちゃんとの旅も、振り返るととても懐かしく切ない気持ちになり、胸が熱くなった。旅の最後の空港までの帰り道を送ってもらえるということが、今の僕にはとても大切に思えた。

 僕は歩き出すと、デリーの街の中心部コンノートプレイスに向かった。どうしても飲みたいラッシーがそこで売っているからだ。その道の途中で、僕はたかちゃんにバラナシの写真のはがきを投函した。無事に配達される確立が低いインドだったが、僕はきっとたかちゃんに届くような気がしていた。手紙には「元気丸出しマルゲリータ!」とだけ書いて送った。それはファミレスでのあるエピソードが含まれた言葉で、たかちゃんにしかわからない言葉だった。まったくインドとは関係ない言葉だったが、これを読んだらきっと大笑いしてくれるだろう。そう思うと僕はニヤニヤした。僕らの間で笑いは最重要項目だった。

 無事にはがきを出すと、ラッシーを売る店に向かった。デリーで初めて飲んだその売店のラッシーの美味しさは、衝撃的だった。酸味と良い濃度と良い、そして空気がふんだんに含まれた食感とキンキンの冷たさ。それは信じられないほどの美味しさで、日本では到底味わったことのない美味しさだった。僕は旅の最後のラッシーを買った。そしていつもしていたように、すぐ近くの大通りの交差点の脇の木陰に腰を下ろし、荷物を脇に置いた。そこでラッシーを味わいながら行き交う車をずっと一人眺めていた。午前中でもすでに40度近くになろうとしていたこの日のデリー。ラッシーが喉を通る度に、特有の酸味と一緒に、熱気を帯びた体感温度がじわっと和らぐ。そしてしばらくするとまた、静かにボリュームを捻るように体感する温度も上昇する。僕はただただそれを飲み終わるまで「あー……」とため息を混ぜながら繰り返し味わっていた。忘れたくない味だった。

 そして僕はなぜかゆり子のことも朱里のことも、ましてやこの一ヶ月の旅のことも、それほど頭には浮かばなかった。ただただ心を空っぽにすることだけに集中した。

 そこへ中学生くらいの物売りの少女がやってきた。その少女はとても綺麗な顔をしていた。僕は簡単な英語で「いらない」と言った。僕はインドで買った、だるだるに伸びて履きずらくなってしまったサンダルを両足の間に脱ぎ、バッグからコンバースのスニーカーを出して履いていた。

 少女が「ソレ ハ ナニ?、イラナイ ノ?」とサンダルを見て聞いてきた。もう捨てるつもりでいたので「あげようか?」とサンダルを持って少女に向けると、少女は嬉しそうにそれを受け取り、通りの向こうに走り去って行った。

 エロ兄ちゃんとの約束の時間が近づいたので、荷物を持とうとした瞬間、あれ⁈ あれ? あれれれー? バックパックはあったものの、お金などを入れていてた小さいバックがなくなっていた。僕は愕然とした。「やられた……」大したお金は入っていなかったが、姪っ子達に買った小さなお土産、そして何よりショックだったのが、旅の途中で知り合った沢山の人たちから貰ったアドレスなどのメモが入っていたのだ……。あちこちで知り合うたびに何人もの住所を聞いていた。僕は日本に帰ってから手紙を書いたり一緒に撮った写真を送ったりすることをとても楽しみにしていた。あんなに盛り上がって「日本に帰ったら写真送るから!」と言っていたのに。二度と送ることのできなくなった、沢山の顔を次々と思いだした。「やっぱりあの日本人は口先だけだったか……」そう思われると思うと、とても悲しい気持ちになった。そして一緒に鞄に入れていた携帯電話もなくなった、ということだった。それについてはなんだかすっきりした気持ちになっていた。

 約束の時間にエロ兄ちゃんはやってきた。しかし困ったことになった。バッグを盗られ、現金が何もなくなってしまった……。幸いパスポートや航空券などの貴重品は、腹に撒いたバッグに入れていたので、空港までたどり着けばなんとかなる。僕はエロ兄ちゃんに、盗まれてしまってもうお金がない。と事情を説明すると、「ノープロブレムダッ!」と大きな声でそう言うと、僕の肩をばちーんと叩いた。そしてまた大きな輪を見せてくれた。僕は「タモさん……」と呟いた。エロ兄ちゃんはまた「エ? ナニ?」とわりとしつこく聞いてきたけれど、めんどくさいので今回も笑ってごまかした。返ったらタモさんの投稿動画のURLでも送ってやろう。じんわりとした肩の痛みを感じていると、エロ兄ちゃん嬉しそうな顔で、やはり「アソコ、アソコ」と最後まで連発していた。僕はその言葉が今ではとても安心できる言葉に変わってきていて、今度は自分のことが心配になった。

つづく

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