小説「チェリーブロッサム」第38話

2018年4月12日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

* ホテルインディアにて 朱里

バラナシ滞在も二日を残したその日、観光も終えてオムさんと別れたあと、僕はホテルの前に立っていた。まだ日も高かったので部屋には入らずに、ホテルの周りをうろうろと歩いた。日差しのピークもまだ過ぎたばかりで、景色が揺らぐほどの熱気を浴びた僕の身体からは沢山の汗が流れた。ホテルの前の木陰を映す低い塀に腰から飛び乗って、自分が泊まっているホテルを眺めた。こうして改めて見てもやはり僕には分不相応な豪華ホテルだった。けれど僕は結局探すのが面倒くさくて、滞在のすべてをこのホテルで過ごしていた。戻る度に贅沢だな、やっちゃったかなとホテルの看板を見上げた。

僕はなかなか目の前にある「流れ」というものを受け入れられない性分だった。「起きてしまったことはしかたがない」ではなく「まだなんとかなる」そうぐだぐだ思ってしまうタイプだ。しかしそうは思っても結局なにもしない。それもまた僕の性分だった。
どんな良いことも悪いことも、それはどこからともなくやってきては、またどこからともへと去って行く。そこに執着しても意味は無い。これはもう何千年も唱えられている「無情」の心理だ。僕はそんな難しいことばかり頭に入っていても、いざ安宿かと思ったら豪華ホテルだった。程度のことでいつまでもぐちぐちと悩むような男だった。

あのガンジスの夜明けの光景は、僕の胸の奥の何かを開いたように感じた。それ以来僕はずっとゆり子のことを考えている。ゆり子と一緒にいることが僕に取ってなにより大事なことなのかもしれない。しかし朱里が……。そんなことを考えながらフラフラとホテルに戻った。俯きながら肩を落とし、考え事を続けながらロビーを通ろうとした瞬間、僕は目を疑った。そこには、ソファーに腰をかけた朱里の姿があった。首が奇麗に見えるように髪を上げて束ね、すらっとした足をホットパンツから存分に伸ばしていた。僕は一瞬で気持ちが昂り、身を屈めながら小走りで陽気に朱里の元に駆け寄った。
「なになになになに⁈ なによ、朱里ちゃん⁈ どうしてここにいるのよー⁈」
僕のご機嫌は、一瞬でゆり子への想いを吹き飛ばした。
「『朱里ちゃん?』じゃないわよ、あんなに何回もここに居るよってメールくれたら覚えちゃうわよ。ふふふ。ホテルインディア? ずいぶん立派な所に泊まってるのね」
「ちがうちがう、なんでここに朱里がいるのよ⁈」
「ああ、それね。ふふふ。えっと、この前インドでマシンのテストがあるって言ったじゃない?」
「でもそれはもっと先の日程じゃなかった?」
僕はそう言いながら、さりげなく身体の一部が触れるように朱里の隣に座った。
「ちょっ、ちかいよ、もうー」
僕は調子に乗りすぎたようで、朱里はそんなことを言ったが、顔に笑顔がまじっている表情を見ると、嫌と言うわけではなさそうだった。久しぶりに見た朱里の顔は、可愛くてたまらなかった。
「そう、日程自体はその通りなんだけど、向こうが『良かったら早めに来て観光でもしないか?』って。本当はテストのあとに予定してたんだけど、インドはもうそろそろ雨期だから、そうなると観光もしずらいだろうって。まったく、肝心のマシンテストは雨での良いのかよ、って話しよね、適当だよインド人って。ふふふ、それでどこが見たいって言うからバラナシでガンジス川見たいって言ったの。そしたら飛行機でぴゅーよ。わずか1時間。みなみさんは列車で15時間だっけ? ははは」
僕はバカにされているようで少し気持ちがもんやりとしたけれど、それでも目の前に朱里がいる嬉しさは格別だった。ガンジス川で素晴らしい夜明けを見れて、自分の胸の中と繋がれて、ゆり子のことをずっと思い返していた。しかし朱里はそのすべての価値観を吹き飛ばすには十分な破壊力があった。僕は朱里の姿を見た、という一撃だけですべてを奪われた。つまりまた僕は「欲」に溺れた。僕はいつも朱里の言動に傷ついて、疲れてしまう。それなのに僕の欲は朱里へと突き動かす。僕の頭の中はもう朱里で一杯だ。すぐにでも朱里に触れたい。そんな気持ちが抑えられずに、「部屋に行こうよ」と誘ったが、朱里は「お腹空いたからご飯食べようよ」と、僕の気持ちを知ってかどうかは分からないが、なんとなくはぐらかせた。
いつものように僕の思い通りには何一つ動いてくれない朱里に対して、また今ももやもやとしていた。僕が望む選択を朱里はいつも弾き飛ばす。相手がどんな気持ちだろうと関係なく。そんな印象だった。そんな考えが暴走する前に、僕は強引にその思考の回転を止めた。止めたときの摩擦は、僕の心をひりひりと痛ませた。朱里に会うと僕は思考でしか物事を判断できなくなる。
「朱里はいつまでここに居られるの?」
「明日の朝にはチームと合流するわ、今日は無理言って単独行動させてもらってるの。今日はみなみさんの部屋に泊まってもいい?」
「あ、ああ、い、いいよ、もちろん!」
僕は「ほんとに⁈」というと一方的な受け身で媚びすぎていると思いそんな言い方をした。そして僕はまた一気に気持ちが華やぐのを感じた。さっきは振り回されそうで落ち込み、今は朱里が泊まると言って興奮し、僕の心は、くにゃくにゃと曲がったり戻したりを繰り返していた。いつか折り曲げた筋に沿ってぱきっと折れてしまう、そんな予感に怯えていた。少なくとも明日の朝までは一緒にいられる、今は余計なことを考えるのはやめることにした。

つづく

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