小説「チェリーブロッサム」第50話

2018年7月23日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

 ニヤリ兄ちゃんがどこかへ行ってしまったので、僕は会場の端の方の椅子に座り、辺りを見渡していた。そしてゆり子が話してくれた、自分の気持ちと繋がる話しを思い出した。ゆり子の話しを聞いたとき、僕はとても感動した。そのときは、そんなことができればいいなとか、うらやましいなとか、少し人ごとだった。僕はいつでも自分の思考に振り回されて、苦しい思いをしてきた。そして相手に苦しい思いをさせてきた。しかしここインドでは、ガンジスの夜明けが僕に自分との繋がりを体感させてくれた。日本にいた頃の僕はいつだってゆり子の気持ちなんか考えずに、そして自分の奥底にある本当の気持ちなんか気づかないで生きていた。

 今までゆり子は、僕が何をしても、ましてや誰かを好きになってしまっても、いつも隣にいて笑顔で僕の気持ちを支えてくれた。僕の自尊心を大事にしてくれていた。しかし僕はゆり子の存在を軽く見ていたのだ。ゆり子はその新しい彼に自分の全てでぶつかるだろう。そこにはもう僕が入る余地などはない。そう思うと僕は怖くなった。今までゆり子のおかげで朱里を好きになれたのではないか? そんな気さえ起きてくる。僕がただ1人で生きていて、ここまで僕を振り回す朱里を好きになれただろうか? 僕にはおそらくそんな勇気も余裕もはなかっただろう。ゆり子が僕の安心を作っていてくれた。会わなくても遠くにいても、いつも僕の安心の隣にはゆり子がいた。だから僕は朱里を好きになった。そういうことなんだ。ゆり子の笑顔が浮かんだ。僕は一体何をしていたんだ。僕は自分の太ももを力一杯に殴った。とても痛かったが、僕には今痛みが必要だった。

 そこまでの安心をくれた人と向き合うことすら出来ない、僕は幸せになれるわけがなかった。ゆり子は失くしてはいけない人だった。失くしてはいけないものを失った絶望感で僕は涙が止まらなかった。僕は椅子に座ってカメラを持ったまま、俯いて泣いた。人目もはばからず。

 日本から何千キロも離れたこのインドで、日本では経験したこともないような大勢の優しい心に触れた。その優しさが僕の心の中に閉じこもっていた真実という本音に気づかせてくれた。すると、ゆり子からの僕へのもう取り戻せない感情が体中に染み渡った。ゆり子を失くしたことを体中が泣いて悲しんでいた。もうゆり子はいない、ゆり子はもう僕には目を向けない。ゆり子はもう僕じゃない誰かに心の扉を開けている。それは僕からはもう見えない扉だった。人の気持ちの中にある扉は、その人が選んだ1人にだけにしか開けることはできない。人はその扉を開けた相手と、幸せに満たされた想いで生きて行く、楽しさ、悲しさ、寂しさや嬉しさ、全ての感情をお互いが自分の力で感じてゆく。その先に二人の間の新しい命が宿り、人は脈々と命を繋いでいく。僕とゆり子にはもうその繋がりはない。永久に無くした。

 僕はその事実の重大さをあらためて感じていた。それは味わったことの無い、寂しさと、不安だった。その恐ろしさは、僕にこの先幸せになんて来るわけがない、という絶望感が僕の頭をばしばしと殴っていた。痛かった。痛くてまた泣いた。

 僕は椅子に座ったまま「おうおうおう」とみっともないくらいに泣いていた。するとニヒル兄ちゃんが隣に来て、僕の肩に手を回し頭をもしゃもしゃとしてくれた。「ゆり子さようなら、ゆり子さようなら」と僕は何度も何度も言葉に出して泣いた。僕が泣いている理由なんてわかるわけも無いのに、ニヤリ兄ちゃんもよく見ると泣いてくれていた。そして離れた所で遊んでいた子供達を呼ぶと、一緒になって僕の周りで泣きながら踊ってくれた。この泣いている日本人に踊ってやれと、僕の周りにはどんどん踊る人で溢れていった。僕はただただ嬉しかった。

つづく

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