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小説「チェリーブロッサム」#5

2017年12月12日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

   * ゆり子                          
                          
 僕とゆり子はお互い仕事が忙しかったこともあり、ほとんどのデートが会社の昼休みの1時間、もしくは会社が終わったあとなど、時間が合う時にだけ会社近くのコーヒーショップなんかでおしゃべりをした。
 コーヒーのお代わりが自由なこのコーヒーショップで僕らは夢中で話しをし、最高13杯ものコーヒーを飲んだ。二人が好きなドラマにそんなシチュエーションがあって、無理して飲んだのを思い出した。ドラマの中では、彼女が「12杯も飲んだね」というと、手の甲に正の時で数を記してあった彼が、その手の手首をもって記された数字を彼女に見せ「ちがうね、13杯!」そして二人が仲良く笑いながらそのドラマは最終回の幕を閉じる。僕らもまったく同じことをしては大笑いをしていた。僕らは時間を忘れて沢山笑って楽しんだ。僕もゆり子も何よりこの時間を大切にしていた。僕らは喧嘩などすることもなく、いや、僕らは一生喧嘩なんてしないのでは。そう思いながらおしゃべりを楽しんだ。
 店の目の前の幹線道路は、沢山の車がヘッドライトを眩しく光らせて通り過ぎていた。僕はヘッドライトと街灯できらめく窓の外と、店内の照明できらめくゆり子の顔を視界に入れながら、この時間の幸せに夢中になっていた。ある日店から帰る道の途中で、僕はゆり子に「ゆり子さんと一緒にいれてとても楽しい」とまだ「さん」づけで言うと、ゆり子も「わたしもよ」そういってゆり子は僕の手を握ってくれた。それから僕らはいつも手を繋いで駅までの帰り道を歩いた。僕が左側で彼女が右側だった。

 コーヒーショップのデートを何度も重ねたある日の駅までの帰り道、ゆり子が今度僕の部屋を見たいと言った。
「え⁈」
 僕はとても驚き、全身をマナーモードにしながら細かく振動し始めた。
「だめ……かな?」
 とゆり子は言った
「部屋き、汚いけど良いかな?」
 と僕は言った。なぜか僕は「一度は断る」というような情緒も忘れ、唐突な申し出を簡単に受け入れた。
「もちろん! わたしお掃除は得意よ。女に部屋を片付けられるってのは、もしや、おぬし嫌いなのか? それともまた産まれちゃうの? ははは、くるしゅうない、わたしにまかせなさい」
 ゆり子はくすくすとおどけて言った。初対面の時の「今お産まれになったのですか?」での僕の膝の揺れ具合のことを、ゆり子はいつもからかった。この調子が出ている時のゆり子はちょっといたずらっ子だ。僕は人にからかわれることを極度に嫌った。自分が責められているような気がしてならないし、どうリアクションしたらいいかまったくわからないのだ。そんな時は家に帰ってまでぐるぐると思考の駒が止まらなくなる。しかしゆり子に対しては、その発作のようなざわつきは起こらなかった。不思議な人だ。
「き、きらいじゃないよ、もちろん! 産まれないから、あ、遊びに来てよ!」
 僕は嬉しいくせに照れてしまい、ゆり子のシャレをひねりもなく真顔で返し、嬉しさを悟られないように懸命の努力をしたが、あっさり見抜かれた?
「そうよね、彼女が部屋に来て掃除してくれるなんて嬉しいわよ、ねー?」
 ゆり子は語尾を伸ばすくらい余裕だった。
「あ、それともなんかしちゃうの、この手で?」
 とゆり子がにこにこと僕の手を取って、自分の体を触らせるような仕草をした。
「わっ、わ、わー」
 僕は本気でドキッとして一瞬、時間が止まったかと思った。
 ……僕はジャズが流れるステレをのボリュームを静かに下げた。かすかに聞こえるジョン・コルトレーンの囁くような演奏。僕は両手をゆり子の肩にそっと乗せた。ゆり子は少し俯いて僕の胸におでこを預けた。「いいよ……」ゆり子はおでこをつけたまま小さな声で僕に意思を伝えた。僕の心臓の音は耳で聞き取れるくらいの大きさで荒々しく鼓動させてい……
「チョップーっ!」
 ゆり子が大げさな手刀で軽く僕の頭を触るように叩いた。僕はドキッとした勢いで、妄想列車網走一番号を発進させて、流氷でも割りに行きそうな勢だったのだ。いや正確には眼をかっと見開き、棒立ち状態で意識を見失っていた。
「なに妄想してたのよ? ねえ。ふふふ。どこ行ってたの? もう帰ってこないかと思ったわ。あはは」
 あまりにも私妄想してます。とぼーっとしていた僕を見て、ゆり子はまた小さな可愛い子鹿の目をくりくりとさせながら、小さく「あはは」と笑ってくれていた。ゆり子のいたずらは心臓に悪かったが、とても嬉しかった。
「今週末はお互い土日は休みだもんね」
「あ、ああ」
 と、聞き流したように返事をしたあと我に返り、
「ど、どにちい⁈」
 驚き過ぎた僕は眉間にしわを寄せ、鬼の形相でゆり子をにらんでしまった。
「ちょっと、こわい、こわいよう、きみー、あはは。……だめかな、土日?」
「え、え、あ、ああ」
 土日ということは……。どー、にちと指を折り数える、つまりは連日……「えー!」あんなことやこんなこと! 再び妄想が暴走し、やっと鎮火したかに見えた妄想網走一番号のボイラー室は、また息を吹き返し轟々と薪を燃やした。僕は裸のまま勢い良く水に飛び込み、片っ端から手刀で流氷を割った。僕は嬉しさで流氷を割りまくった。
「そ、そうだ! 休みだ休みだ! ばんざいっ! ばんざいっ! わー」
 僕は抱えきれそうにない嬉しさと驚きの感情が滅茶苦茶に混ざり合い、現実に暴れた。大声で道路に向かって「トラックーっ」だとか「軽自動車ーっ」だとか一方的に叫びながら取り乱し、そのあとに至っては「ほうれんそうーっ」だった。僕のボキャブラリーは崩壊した。
 隣で体をくの字に折り曲げながら大声で笑うゆり子を見て、妄想網走一番号はどんどんと薪を焼べながらスピードを加速させ、僕を乗せていつまでも汽笛を鳴らした。しばらくあとに絞るように「ぽめらにあーん」と叫んでからの僕の記憶は稀薄だった。ゆり子はまだまだ笑い悶え苦しんでいた。
 僕は稀薄になりつつある意識の片隅で、ゆり子が家に来る、ゆり子が家に来る! と何度も何度も嬉しさの拳を握った。

つづく

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