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小説「チェリーブロッサム」第39話

2018年4月20日| 小説「チェリーブロッサム」, 記事一覧

朱里は今日は半日この街をふらついていたようで、食べたいお店を見つけたから食べにいこうと連れて行ってくれた。外に出て歩いて店まで向かうと、僕らはなぜか縦に2人で歩いた。僕は手を繋ぎたかったが、なぜか躊躇してしまった。拒否されるのが怖かったからだ。それに朱里は手を繋ぎたいなんて少しも思っていないように思えた。
お店に着くと朱里は流暢ではないけれど、意思の疎通を英語で問題なくコミュニケーションをしていた。朱里はターリーという丸いお皿に沢山の種類のカレーが乗ったプレートを、僕の分も合わせて頼んでくれた。僕はこのスタイルのカレーをインドではじめてみた。
「なにこれすごいね?」
「えー、みなみさんインドに来てターリー食べてなかったの? あかりもうこれで2度目よ。だめねー」
僕はまた否定されているようでしょんぼりとしてしまった。僕の前世は「しょんぼり星の王子」そんなところだろう。チャンスに弱いエースで4番だった。そしてそのしょんぼりとした理由はその言葉だけではなかった。原因のほとんどは朱里のメールだった。会話をしていても、食事をしていても、朱里はしきりに誰かとメールのやり取りをしていた。僕と喋りながらも携帯電話を隠すこと無く何度もメールをしていた。だけど僕は何も言えず、ただただ朱里が電話を下ろすのを待つしか無かった。好きな人と一緒にいるのに、いや好きなのはおれのほうだけなのか、それでも僕らは恋人同士だ、その恋人と一緒に居る時間にも目の前でメールを送り合うその相手は誰なんだ……。あかりは極端に女友達が少ない。ほとんどが男友達だった。メールの相手が誰であろうと、目の前の人が誰であろうと、何度も露骨にメールをするなんて僕には信じられなかった。僕の気持ちは、ざらっざらにささくれ立った。
そして気持ちを悟られないように夢中でカレーを食べた。朱里がメールをしている間、僕は食べるしか無かった。カレーに集中した。無理矢理意識をカレーにもっていき、そしていつの間にかほんとにカレーに夢中になっていた。信じられないくらい辛かったが信じられないほどの美味しさだった。夢中で食べた、そして夢中になりすぎて、
「……なみさん、みなみさんっ」
朱里が語尾を強めて僕を呼んだ。
「え、あ、あ、な、なに?」
と僕は仮想眼鏡を斜めにしながら、慌てて朱里に間抜けな顔を向けた。「おいカレー、うますぎんだよっ!」と朱里に怒られてどうしたらいいかわからない気持ちをカレーにぶつけた。カレーはただただそこに居た。
「もう、話しきいてるの?」
そ、それはこっちが言いたい台詞だ! しかしそんなこと言えるわけも無く、
「あ、ご、ごめん、な、な、なんだろう」
僕の嫌われたくないウイルスが発症し、とにかく慌てて謝った。
「インドのそのメーカーのね……」
朱里が何か話をしていたが、僕はもうこのターリーの虜になってしまっていた。インドにこんなすばらしい料理があるなんて僕はなんてリサーチ不足だ。明日からはこの「ターリー」一本にしぼろう! 昨日は宿のレストランで長いお米のチャーハンをビールで極めていた自分を呪った。中華に長米は、これ以上ないくらい合わなかった。旅しろよ自分! しかし僕はその後の会計でこのターリーの値段を知り、しょんぼり星に帰りたくなった。びっくりするほど高かったのだ。そりゃ美味しいはずだ。

僕らはそのあとはなんとか会話も弾み、朱里のマシンテストの話題や、僕のインドでのこれまでのことなどを話した。朱里も僕のインド滞在記をお腹を抱えて笑ってくれた、朱里とつき合ってから、初めてこんな楽しい会話をお互いの目を見ながらできたような気がした。僕はこの時間をとても楽しんだ。気分はすっかり「うきうき星のプリンス」へと変貌していた。突然また脳裏にゆり子のことが浮かんだが、今は丁寧に引き出しの中に仕舞い込んだ。今は良い、と。
帰り道、僕らはホテルまで手を繋いで帰った。食事のあとからは、朱里の雰囲気もどこかリラックスしたように見えた。帰り道、朱里から手を繋いできた。そんなことが初めてだったから少し戸惑ったけど、手から伝わる朱里の感触と温度は僕をとても満足させた。しかし、どう接していいか分からない気持ちが消えることはなかった。

部屋に入ると朱里はあたりを見回し、「中もホテルインディアだねえ」とチクリと言って1人でくすくす笑っていたが、僕の気持ちは高ぶっていて、朱里の皮肉などもうどうでも良くなっていた。僕の中で眠るか弱い野獣スイッチ全てをONにした。それはライオンなどではなく、狐がキーと叫ぶくらいのスイッチだった。朱里はすぐにシャワーを浴びたいと言って、座る暇もなくバスルームに行ってしまった。僕は胸は高まってどきどきとした鼓動をさせていた。そして僕は朱里がバスルームに行ったあと部屋を見渡して、思えばほんとに豪華な部屋だよな、と改めて認識した。明日からは貧乏宿だ! と心に決め朱里のシャワーの音に耳を澄ませた。

ふと気になって自分の携帯をチェックした、電話のマークのアイコンとメールのアイコンには、どちらにも一件の不在通知を示す表示があった。相変わらず不在着信の番号はめちゃくちゃだったが、今朱里と一緒にいるということは、その着信はゆり子ということは明らかだった。そしてメールを見るとやはりそれはゆり子からだった。メールには僕の旅を気遣った言葉が沢山並び、そして最後に「話したいことがあるの」と締められていた。僕はドキッとして、すぐにあの彼のことを思い出して不安になった。この直感が外れればいい。僕はそんな都合のいいことを思うと、ゆり子へと気持ちが戻されそうになったが、シャワーが止まる音がして、またすぐに現実に意識が戻された。僕が今一番望んでいる「もの」があの扉の向こうにあるのだから。僕は全身が泡立つような欲望を抑えるのがやっとだったし、ここがインドだということすら忘れそうになった。そして朱里のメールの相手が誰なのかと考え出すと、僕の頭の上を黒い何かが覆った。

僕が朝起きると、朱里はすでに支度も済ませ、昨日と同じように髪を搔き上げてから後ろで一つに縛り、足を組んで椅子に座っていた。僕が起きたことに気がつくと、朱里はこちらを見た。その姿に僕は見惚れた。朱里は艶かしく美しかった。昨日ロビーで逢ったときは、ホットパンツを履いてアクティブなアスリートの雰囲気だったが、朝の朱里は性格の粗さまで取れているような神々しさだった。
「おはよう、イビキすごかったよ、寝れなかったから蹴っ飛ばしたら静かになったよ。ふふ」
やはり性格は荒かった。僕は腰の当たりにうずきを感じ、手ですりながら朱里を見つめた。
「うそうそ、うそよ、ほんきにしないの、もー。そんな顔しないで、気持ち悪いよー。そんなことするわけないじゃない。みなみさん静かに寝てたわよ、死んでるのかと思ったよ。ははは」
「あ、ああ、そうね、そうだよね。ははは、おはよう」
朱里のこのいつもの笑えない冗談が嫌いだった。僕の気持ちを雑に扱うような朱里の言葉。僕はいつだって朱里のこの言動に緊張している。僕らはお互いが笑い合えるような会話はとても少なかったし、正直朱里との会話は身構えてしまう。僕の話しに朱里は笑わないし、僕のジョークも好きではないみたいだった。そして僕も、朱里の話に僕が含まれていないことがとても多くて、いつも僕は遠くで他人の話を聞いているような感覚だった。昨日の朱里との会話が楽しかっただけに、僕はとても落ち込んだ。
しかしそんな僕の気持ちを吹き飛ばすのが朱里の美しさだった。僕は女性が一晩でこんなに変化をするのだということを目の当たりにして、朱里に抱いていたメールの相手に対する疑惑など、どこかへ吹き飛んだ。朱里のこの変化は、僕と一晩を過ごしたことによる変貌なのだ。僕は今満足をしている。それで良かった。今はまだ残っている朱里の肌の感触に満たさていればいい。
帰る時間になると、朱里は「じゃ」と軽く僕の方を見ただけで、むせ返る熱波の中を振り向きもせず帰って行った。この日のただの素っ気ない別れは、僕と朱里との恋の「別れ」でもあった。この日以来、僕は朱里と会うことはもうなかった。

つづく

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