小説「チェリーブロッサム」第52話

   * ゆり子との長い会話

「高山くん⁈」

 ゆり子は2度目のコール音で、嬉しさが弾むような声で電話に出てくれた。以前の電話でのゆり子の雰囲気に不安もあったが、その嬉しそうな声を聞いて気持ちを告げる弾みがついた。もうゆり子は彼と付き合うと決めている、ダメと言われても、また今ゆり子の元気な声を聞けた。その満足感が、当たって碎けろ、と僕に言っているようで気持ちが逸った。

「ゆりこ、おれゆり子のことが大事なんだ! やっぱりおれゆり子と一緒に居たいよ」

 僕は、ゆり子の声を聞いた瞬間、自分の想いを伝えていた。

「…………」

 ゆり子は無言だった。

「ゆ、ゆり子? ねえ?」

 僕は碎けても良いと思っていながらも、ゆり子の意外な雰囲気を感じ、一気に不安になった。部屋のエアコンは付いておらず、僕の全身からは、暑さの汗と不安の冷たい汗が混ざり合いながら吹き出した。

「高山くん、電話ありがとう……。とても嬉しいよ」

「なら……?」

 僕は汗を拭いながら言った。

「高山くん? 高山くんが今わたしに伝えたい言葉は、それだけ、なの……?」

 ゆりこの言葉の意味が僕にはわからなかった。その声は、静かに低く、寂しさと孤独を味わいながらぽつんと光る、冬の街灯のようだった。

「え、だから、おれゆり子のこと、だ、大事におもって……」

「違うの……」

「え?」

「……高山くんはもう、もうわたしに好きと言ってはくれないの……?」

「え? なにが?」

「わたし、大事……、大事って想ってくれることはとても嬉しいわ、けど、高山くんはわたしのことは『好き』ではないの? 思い出せない? わたしたちが付き合いを始めた日に、お互いが伝え合った言葉」

「…………」

 その日のことは、今でもしっかりと覚えている。僕は自分の心を震わせて、泣きながらゆり子に「好きだ」と言ったのだ。それは青空の日の目覚めのように、今でもどこまでも澄んで覚えている。忘れるわけはなかった。しかし、どうしてか僕は言葉に詰まってしまった。そして「好きだ」という言葉が出てこないということに、僕自身、愕然とした。

 ゆり子の魅力なら両手じゃ足りないくらいに挙げられる。けれど僕はなにかまた、つまらないプライドでも持ち出しているのか? いやそんなことはない、そんなことはなかった。僕は自分の気持ちとはっきりと繋がった、あの男性だってそう言ってくれたじゃないか。僕はゆり子と一緒にいたいんだ。しかし僕はどうしても、その日の記憶だけでは、ゆり子に「好きだ」と応えることができなかった……。僕がゆり子への好きという気持ちと、繋がれなかったのは、その気持ちを入れておく引き出しが、すでに僕の胸の中から消えてなくなっていたからだった。繋がれるわけが無かった……。好きだと言えるわけがなかった。

 僕は安心だけをほしがり、寄り添って貰うことだけを求めていたのか? そしてゆり子からの好きという言葉を一方的に都合良く搾取していただけだったのかもしれない。今僕の胸の中の感覚は、落ち葉がひらひらと落ちるようにそれを証明していった。

 僕はショックだった。僕はゆり子とは一緒に居られない、居てはいけなかった。そう思うと僕の気持ちは、真っ暗な知らない人の家に許可無く立ち入り、靴を履いたまま歩き回るような、そんな罪悪感を感じていた。僕の体中の皮膚に、一斉に孤独がしみ込んだ。

「…………」

 しばらくお互いが黙っていた……。そしてゆり子が話を続けた。

「高山くん覚えてる? わたし達が付き合いを始めた日のこと……。涙を見せながら高山くんが『好きだ』って言ってくれた時、わたしすごく嬉しくて飛び上がりたいほどだったの。この人だ、って思った。ほんとうよ。そして、付き合ってゆくうちに、わたしが思う以上に高山くんが心のことで悩んでるって知ったから、わたし自分が悩んでいたときよりも必死に高山くんのこと調べたの。高山くんの心の中で一体何が起こってるのかって。沢山の本も読んだし、叔母にも相談したわ。けれど叔母は『心の問題は本人の問題だから、あなたができることはとても……、とても少ないのよ』って。でもわたしじっとしていられなかった。調べるほどに高山くんの辛い気持ちが理解できてきたの。それでわたしどんなことも受け入れようって思えた。だからわたしなにも怖くなかった。だから高山くんがどんなにわたしにきつく当たっても、それほど辛くなかったのよ。耐えられるって思ったの。そして、もしかしたら誰かのこと好きになっちゃったりするんじゃないかって思ったけど、結局は朱里さんのこと好きになっちゃったんだけど、でもわたしそんなことどうでも良かったのよ。どんなに悲しかったとしても、そんなことどうでも良い問題だったの。高山くんがあの日に言ってくれた『好きだ』という言葉だけで、わたし何があってもこの人から離れない、支えていきたい、一緒に笑い合いたいって思えていたの。わたしへのその高山くんの『好きだ』という言葉が、わたしの全てだった。全てだったのよ……。それくらいに最高の言葉だったの。あんなに綺麗に澄むように『好きだ』って言ってくれる人、もうわたしには一生訪れない。そう感じたの。そしてわたしがその時応えた『わたしも好きよ』と言う言葉は、それはわたしの高山くんへの『覚悟』だったの。けど高山くんはそれ以来……、結局今も伝えてはくれなかったね……。わたしの中で何かが途切れてしまったよ……」

 そう言ってゆり子は泣いた。小雨がアスファルトを濡らすように静かに泣く気配が、数千キロの距離を超えて伝わってきた。ゆり子が泣き止むのを何も言わずに待った。

「……わたしもう1人で抱えて孤独に待つのが限界だったのかもしれない。もう耐えられないと思っていたのかもしれない。そんなときに彼と出会ったの。彼から「好きだ」って言ってもらったとき、わたし彼と付き合うなんて考えられなかった。わたしは高山くんと一緒に居たい。そう思っていたわ。高山くんは朱里さんの所へ行ってしまっていたけれど、いつか戻って来てくれる、いつか高山くんが自分自身の気持ちに気がついてくれる。それを疑わないで待てる自信があったの。けどね、彼とても積極的にわたしに関わろうとしてくれて、そして彼の話しをきいているうちに、こんな人もいるんだって思うようになったの。それで彼に興味が出て来たの。そして徐々につき合っても良いかも、って思うようになって……。彼ね、彼とわたし、お互い不器用な感じですごくぶつかるの。ののしりに近いときだってあるわ。まだ少ししか会ったことも無いんだけどね。わたし誰かにこんなに本気でぶつかれたのが初めてだったの。そして本気でぶつかることってこんなに楽なことなんだって知ったの。わたし、高山くんにはどこか遠慮してしまっていた……。彼はね、わたしに真正面から「好きだ」って言うの。『ぼくは君がどんなでもいいんだ、何をしててもいい、僕のことが好きじゃないとしても、僕のことを記憶から忘れてしまったとしても、僕はきみのことが好きだ。僕はそれだけで生きてゆける。もちろん君からも好きって思われたらそれはすごく嬉しいけど、君が僕のことを好きかどうかは、君にしか持てない、君だけの選択だから』わたし感動しちゃったの。だけどわたし、彼にもう少し返事を待ってほしいってお願いしたの。高山くんとの今の関係を伝えて……。後悔したくなくてもう少しだけ高山くんのこと待ちたいって言ったの。わたし彼に対して、つき合うなんてこと、そんなに簡単に決められたわけじゃなかったのよ。すごく悩んで苦しかったの。1人で苦しんでいたの。そしたら彼笑顔で「待つ」って言ってくれて……。いつまででも待つって。そして『君がどんな選択をしても僕の気持ちは変わらない、彼と生きて行くと言っても、僕は離れたところから応援できる。正直に言ってくれてとても嬉しい』って。このひと自分の人生をきちんと生きているんだなって思ったの。最初に高山くんがインドに行くって聞いた時、わたし何か光るものを感じたわ。何かがインドで起きるかも。高山くんにとって最高の出来事が待っているような気がしたの。高山くんが自分自身の何かに気がづいて、高山くんが、高山くん自身の人生を歩けるんじゃないかって。そんな日が来たら、もしかしたらわたしの所に戻って来てくれるんじゃないかって思って……。そうじゃなくっても、高山くんが自分の人生を歩けたら、わたしのところに戻らなくてもそれでも良いって思えていたの……。高山くんが幸せだったらそれでよかった。わたし高山くんに電話で彼とつき合うって言ったけど、だけど、言ったあとすごく後悔して、まだ高山くんのこと待とうって思ったの。何も言わずに……。これはわたしのかけだったのよ。わたしが彼と付き合うって言っても、それでも高山くんが何かわたしに伝えたいことがあるんだったら、それはわたしにとって最高の言葉になると思ったの。そんな高山くんの覚悟を感じたかったの。ずるいと思うけど、わたしにはもう高山くんと繋がるためにはそれしか方法がなかったの。わたしは高山くんと繋がりたかった……。もし……、もしそのまま高山くんがわたしと関わろうとしないで旅が終わったら、そうしたらわたしの全てを彼に向ける。それで良いと思ったわ。わたしが高山くんのインドでの日程を詳しく知りたかったのは、そのためだったの。だから電話がきたとき、わたし心臓が止まりそうなくらい「どきっ」としたの。毎日毎日ずっと待ってたから。とても嬉しかった。きっと最高の言葉が聞けるような気がしたの。だからもし今日高山くんがわたしのこと「好きだ」って言ってくれてたら、わたしなんの迷いも無く彼のことを断れたと思うの。けどやはりそんな映画みたいなことって起きないよね……。でも電話をかけてくれただけで嬉しかった。それだけでもわたしにとっては信じられないくらいの奇跡だったわ。試すようなことしてごめんね……。試すつもりなんてなかったのよ。わたし、抱えきれないくらい気持ちが揺れて怖かったの、辛かったの。毎日毎日泣いていたわ、でもわたしこれでもう思い残すことは何もなくなったよ……」

 ゆり子の泣き声は、水たまりに落ちる雨粒のような音階と、雨の匂いを僕に漂わせた。僕は何も言えなかった。何かを言ってもどれも言い訳のようにしかならない気がした。僕は何も言わなかった。

 それからゆり子は声に出して泣いた。しばらくするとそれはゆり子の嗚咽に変わった。

 僕はベッドの上で胡座のように自分の足の裏同士を合わせて座っていた。合わせた足先を片手で持って、静かに揺れた。じっとしていたら、じわじわと押し寄せて来ているこの孤独に壊されてしまいそうだった。そしてもう片側の手で携帯電話をしっかりと持って、ゆり子の泣き声を聞きながら、僕も泣いた。僕らは長い間、泣いた。僕らの数千キロの距離の電波の間には、静かに漂っている小舟がいて、その小舟が僕らの泣き声が聴こえる所まで漂って来ると、その声に引き寄せられるようにゆっくりと沈んだ。その船に何が乗っていたのか、僕には苦しいほどはっきりと見えていた。

「…………」

「高山くん、朱里さんとはどうなったの?」

 お互いが泣き止むと、ゆり子は少しだけ明るい色を混ぜた潤んだ声で僕に聞いた。ゆり子はほんとうに何かを吹っ切ったようだった。

「振られたよ。はっきりとは聞いてはいないけど記事でみちゃったんだよ……。それにもう彼女に振り回されるのにも疲れてしまったよ……」

 僕はその記事の内容をゆり子に説明した。

「もう彼女とは逢うことはないと思う……、彼女はもうほかの……」

 そう言った僕の言葉は、まだ気持ちのどこかに潜んでるかのような、朱里への未練の想いをゆり子に伝えていた。

「それでいいの?」

 ゆり子は今度は少しだけ強い色を混ぜた声で僕に聞いた。

「しかたないと思う、僕がいけないんだ……」

 僕は朱里に対して、怒りのような気持ちすらあったし、一緒にいることはもうないだろうと思っていたが、好きかどうかと聞かれたら、すぐに「好きだ」と答えられる。その気持ちに気がつくと、僕の中で何かが繋がった。ゆり子がこだわった「好きだ」という言葉の意味が、僕にもわかりかけているようだった。

「高山くんはそれでいいの? そうして好きな人を手放していいの? どんなものでも、好きと思えることって……、好きと思えることは奇跡に近いことなのよ。奇跡を手放していいの? 好きという気持ちがあれば朱里さんの側にいる努力はできるはずよ。好きってどんなものにも言うじゃない、海がすき、花がすき、そしてあなたが好き。って。それは普遍的に何があっても変わらずに好きなこと。そういうときにだけ言う言葉だと思うの。わたしはどんなにその人に呆れたり怒ったりがっかりしても、わたしのことを好きって言ってくれる限り、そしてわたしが好きって思う限り繋がっていたいと思うの。条件なんか関係なく、気持ちなの。わたしは気持ちで生きて来て、気持ちで高山くんと向き合った。高山くんがどんな人でも、何をしていても、例え間違いをしたとしても、わたしの気持ちは変わらなかった。ほんとうに相手のことが好きという気持ちがあれば、間違いにも向き合えるはずよ、そしてお互いに気持ちが指し示すほうへ歩いていけるはずなの。わたしは今、彼にはそんな想いを感じてるの。今のわたしから見た高山くんは大事な存在だし、幸せであってほしいと思う気持ちはもちろん変わらない。だからこそ好きなことへ目をむけてほしいの。わたしの勝手なのかもしれないけど……。でもわたしの好きはもう高山くんへは向かないわ。色んなことに気がつけた。もう後悔はないわ……。わたしのなかの曇った霧が晴れたの。そこに見えるのは彼の姿よ……」

 僕はもう何も言えなかった。言う必要がなかった。ゆり子がここまで自分をきちんと見れている人だったんだ、僕はこの世の中にあり得ない物を求めているのだろうか。僕が必要としていたものは、あり得ない人との繋がり、ありえない恋人との繋がりだったのだろうか。僕のこの想いは誰も、自分自身さえも幸せにできないのか。僕の沢山の価値観が、互いに合わさろうとしていたが、耳障りな音を立てながら、何一つ合うことなく地面にバラバラと落ちた。

「高山くんが誰を選ぶかは、それは高山くんだけが選べる大切な選択なのよ。それは誰にも止められないわ。自分の意思で決めて自分の意思でそのすべてを受け取る。それが自分の意志で決めた自分の真実なの。誰も代わりにはなってくれないし、誰かの選択の結果で自分の真実を受け取る。そんなこと、したくてもできないの。良いことも悪いことも、自分で選んで自分で受け取れるということは、何よりの幸せなであって、「自分の真実」を受け取れる唯一の方法なの。高山くんがこのインドの旅を自分で選んで自分で決めたように、この旅で得られた幸せは、高山くんが決めたからこそ得られた最高の幸せであって、高山くんの真実なのよ。自分が決めたものを信じてほしいの、どんな結果だろうと。自分が決めたことでしか得られないものが、この世の中で一番大切なの……。それが人が生きている中で一番尊い物だとわたしは思うから。だからわたし彼を選ぶの、選んだの。彼とこれから起こること全てを受け取れることが最高に嬉しいの。最高の幸せなの。わたしは好きと想って好きと想われる場所で、笑って、泣いて、感動して、失くして、怒って、くじけて、そしてまた笑うの。わたしはそういう場所で生きてゆきたいの。それがわたしのほんとうの気持ち、心なの。そうしてわたしは彼と一緒に生きて行く。わたし……、彼のことが好きよ……」

 ゆり子は最後に「わたし、本当の自分の気持ちに気がつけたよ、ありがとうみなみくん」ゆり子は最後にはじめて僕のことを下の名前で呼んでくれた。その真意はわからなかったし、下の名前で呼ばれるということは不思議な感覚だったけれど、僕はとても嬉しかった。それは僕がずっと前から望んでいたことだったのだと、僕の感覚達が今僕に伝えていた。僕は、「こちらこそ、ありがとうゆり子」とだけ言った。そうして僕らはしばらく無言になったあと、どちらからともなく電話を切った。それがゆり子との最後の会話だった。

 僕はゆり子と電話を切ったあと、朱里に「別れよう」とメールをした。僕は朱里の側にいないということを自分自身で選んだ。

 僕の二つの恋がインドで終わった。

つづく

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