小説「チェリーブロッサム」第49話

僕のインドでの旅は、観光地と喧噪ばかりを渡り歩いて来た。とても刺激的で楽しかった。この結婚式に出れると思った瞬間、あの小さな橋、否、小さな村に行かれなかったもやもやも解消できるのではと思ったのだ。念願の普通のインド人との触れ合いで、一体どんな経験ができるのだろうかと。しかし手練の識者達も、さすがに結婚式のことなんて、誰も一言も言っていなかった。
言葉もまともに通じなく、コミュニケーションもまともに取れないと思っていた海外で、僕は日本にいる時以上に心が開いているのを感じていた。コミュニケーションは言葉じゃないんだな。なにか大きなことに気がついた。これは良いことがありそうだ。そして良いことどころではない、大きな出来事が僕を待っていた。
僕は奇妙なスキップで「うきうき、うきうき」と言いながら転んだ。ここぞというときの僕はいつだってドジなのであった。しかしニコンは傷一つ付かなかった。僕はこの幸運を運んでくれたニコンの無事を確認すると、「今日からお前は煮込みのニコンではなく、幸運のニコンだ」と新しい称号を与えた。しっかりと働いてくれたまえ。Good Luck NIKON!
地下の食堂で式は行われると聞き、僕は約束の15分ほど前にその周辺をさりげなくうろうろとした。来いよと言ったインド人の名前も聞いていなかったし、どうしていいかわからずにいた。フロントのシンさんは、「トニカク イッテ ミロ」とだけ僕に言った。しかしじっとしていてても仕方がない、シンさんの言う通り、とにかく行ってみた。
そこにはわらわらとインド人達が集まりかけていて、驚いたことに誰もスーツなど着ていなかった。ほとんど普段着といった装いだ。そんなにカジュアルな式なのか? まさか新郎新婦まで私服なわけないよな? 僕はうきうきとやって来たものの、本当に結婚式なのか? と再び不安が立ちこめた。

人だかりに近づいてよく見ると、そこでは大きなタンドール釜でナンを焼く、ナン職人が腕を振るっていた。隣には料理も並んでいる。みんな美味しそうにナンにカレーを付けて食べていた。やはり結婚式になるとチャパティではなく豪華にナンを食べるんだな。すると人ごみの中からナンを焼くナン兄ちゃんが僕を見つけたようで「コイ」と僕のニコンを指差し手招きをした。僕は「は? え、これ?」と、あなたの目的はこれですか? と聞くような仕草でカメラを持ち上げて、間抜けな表情をしながら近づいた。するとカメラをまじまじと見つめた兄ちゃんの目がぴかっと輝いた。「グッ、キャ、メーラー」と呟いたあと、人差し指を下からくいっと二度ほど曲げながら「トレッ」と力強く僕に言った。僕は「撮っていいのか」とシャッターを人差し指で押すジェスチャーで聞くと、おなじみの「ノープロブレム!」が返ってきた。僕はこの結婚式に受け入れてもらえたような気がして、一気に気持ちが盛り上がった。

ナン兄ちゃんは、この結婚式の新郎新婦の関係者かどうかはわからなかったが、結婚式という華やいだ場で最高のナンを焼いてやろうと、バカでかいタンドール釜を担いでやってきたのだろう。││実際は担ぐなんてできるわけのない巨大な釜だが、そんな意気込みを感じた││そしてそのハッピーな意気込みと僕の気持ちがつながった。そこにもう国境も言葉の違いもなかった。
最高のポーズだった。ナン兄ちゃんは、専用の用具で伸ばしたナンの生地を持ち、タンドールの丁度釜内側の壁に叩き付けるようなポーズで止まっていた。釜深くに手が入っている。かなりの熱さだろうが、そこは職人だ。表情一つ変えずポーズを取っていた。褐色の肌に真っ白のタンクトップ、顔は細身で整えられた口ひげ、眉もきりりと濃い。極まっていた。いやキメていたのだ。シャッターを押した。ナン兄ちゃんとの競演が始まった! 何度も何度も押した。まるでアニメでも作るかのような連射だった。いきなりのシャッターチャンスに力も入り、ぱかぱかとシャッターを押していた。結果、違いのよく分からない写真が大量にデータとして納められた。そして僕の連射が終わると、ナン兄ちゃんは力強く「イケ」と地下を指差した。僕は目を輝かせ、最高のターンで振り返り、階段入口の扉の方に体を向けた。その瞬間、入り口に入ろうとしていた大柄なインド人の背中に僕は思いっきりぶつかった。そのインド人がにらみながら振り返った。僕は「やばいっ!」と思った瞬間「ノープロブレム!」とそのインド人は僕にサムズアップを送っていた。僕は「ソ、ソーリー!」と謝った。しかし男はサムズアップをしたまま、僕の前に立ちはだかったままだった。視線をよく見ると、男は僕の幸運のニコンにじっくりと視線を送っていた。僕ははっとした。そうかインド人はやはり誰もが写真を撮ってもらうのが好きなんだな。インド人に対してこれ以上のコミュニケーションツールはなかったのかもしれない。まさに幸運のニコンだった。
サムズアップをくれたおじさんは、僕に来いと階段を先導してくれた。階段を下りて行くと、もう地下の食堂は、賑やかな熱気に溢れていた。僕は一瞬怯んだが、一番下まで止まらずに階段を下りた。
そこへ一人のニヤリとする兄ちゃんが近づいてきた。ちょっといやらしそうな表情をしながらも、なんだか嬉しそうだった。カメラを持った日本人が紛れ込んできた、ニヤリ兄ちゃんの何かのスイッチを僕が押したようだった。ニヤリ兄ちゃんは、こっちへ来いとあごを振った。やっぱり怒られるのか? いや、でも笑ってるしそんなことはないだろう……。僕は連れられて恐る恐る会場に入り込むと、沢山の参列者が所狭しと賑わっていた。しゃがみ込んで話す人々や、簡易ステージのような所では、すでに楽しそうに踊っている人もいる、みんなが楽しそうだった。地上にいた時は、参列者は集まりかけなのかと思っていたが、もう集まり切る寸前だったのだ。兄ちゃんは僕を連れ回し、まずはビュッフェの食事を片っ端から食べさせてくれた。しかしだんだんとめんどくさくなってきたのか、しまいには、あれを食えとか、あれを飲めとか、指を刺すだけで僕をあちこちに動かした。そんな状況に、もう何を食べて何を飲んでいるのか味もさっぱりわからないくらい、僕は慌てた。しかし片っ端から食べながらも、僕はこの場に馴染めそうな予感にうきうきとしていた。そして会場はさらに盛り上がりを見せていった。

会場に集まっていたご夫人達は、見たことも無いような壮麗なサリーを着こなし、おでこにはビンディと呼ばれる宗教的な意味合いの綺麗な模様のシールを貼っていた。会場は華麗に華やいでいた。男性は民族衣装を纏う人もいたが、ほとんどが私服のような出で立ちのカジュアルな式だった。おそらく僕のように飛び込みで遊びに来た連中も沢山いるのだろう。どうりで僕なんかが気軽に入れるわけだ。
暑くなったのか、チェックのシャツの胸のボタンを外し、いっそうカジュアル感をだしていたニヤリ兄ちゃん。それからも自分の姉だとか母だとか、あらゆる人をどんどんと紹介してくれた。みんなとても親切に良い笑顔で挨拶を返してくれた。小さな子供達も、面白そうな外国人のおもちゃがきた。とでも思ってくれたのだろうか、大はしゃぎで僕の手をあちこちから引っ張ってくる。みんなが写真を撮れ撮れと楽しそうにポーズを決めたりしている。そうしてると今度は生意気そうな背の高い兄ちゃんが来て、俺を見ろ。と合図をすると、その場で豪快に踊り出した。そして踊りながらも仕切りにカメラを指さした。「オウケイ、オウケイ!」と言って何度もシャッターを押した。ダンス兄ちゃんは満足そうだった。僕の人見知りもここではまったく出番もなく、みんなと一緒に楽しんだ。あまりに馴染んだ僕は、自分がインド人にでもなったような錯覚を起こしていた。今までの人生、日本でもこんなに楽しく人と触れ合えたことがあっただろうか、僕は旅に来たことは正しかったんだと、このインドに来て初めて自分の為の涙が出た。観光地も楽しかったし面白かった。壮大な建築や悠久の流れガンジス、その他にも沢山の歴史や文化などを直に感じた。しかしこれほどにも自分の感情が喜ぶような触れ合いはなかった。僕は良いガイドさんに出会え、こうして一期一会の結婚式にも歓迎してもらえた。これが本当のインドなんだ、そして旅なんだ。こんな気持ちのいいことならいつまでだって僕はインドに居たい、そう感じていた。そして何かが吹き出すのではないか、と思うくらい胸が熱くなるのを感じていた。なんだろうこの胸の感じ、満たされた気持ちが外へ外へと出たがっている。傾いていた僕の心の地盤がまっすぐになり、その場に楽に立っていられる感覚、ここでの触れ合い全てが初めての経験だった。僕はこの場に安心していた。気がつくと、僕の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。僕は自分の気持ちの解放を楽しんだ。

つづく

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