小説「チェリーブロッサム」第43話

* アグラ

タクシーはようやくアグラの市内に入り込む。インド市街特有のゴミで埋もれる道路。そんな道路にも慣れてはきたが、ここアグラの状況は酷かった。治安も悪そうだ……。

僕はまずは宿に案内してもらった。宿の前に車を止め、ガイドのエロ兄ちゃんと一緒にフロントへ行った。知り合いの宿らしく、フロントの兄ちゃんも、笑顔でとても親切にしてくれた。

「ダイジョブ デスヨ、エロ兄ちゃん ノ ショウカイ ボッタクラナイ ヨ」

そう言うと、エロ兄ちゃんとフロントの兄ちゃんは二人で高笑いをして楽しそうに会話をした。しばらくするとエロ兄ちゃんは、

「ホカ ニ イッテ ホシイ トコロ ハ アル カ?」

と聞いてきたので、

「今日は宿で休むよ」

というとエロ兄ちゃんは、

「オウケイ」

と言ってサングラスを少し上げて、ウインクしたあと、車に乗ってブロロローと去って行った。そのあと僕はフロントで軽く話しをした。簡単な挨拶程度の会話はなんとなく話せるようになっていた。さすがにヒンディー語はさっぱりだったが、ここインドではほとんどの場所で英語が通じる。インドの義務教育では使える英語の教育が整備されているようだった。なので学校に行けないような貧困層のインド人には英語は通じなかった。

ここの宿代はそれほど高くもないく、それでいてなかなか雰囲気も良かった。宿で一番大事なことは、フロントの人と仲良くなることだった。フロントと言うとかっこ良く聞こえるが、要は店番のことだ。この店番の兄ちゃんは、エロ兄ちゃんと仲が良いことだけあって、陽気で楽しそうな人だった。

しかしこの値段でこのクラスの宿に泊まれることに僕は驚いていた。今までの安宿はなんだったのか。おそらく今回は、外国人プライスではなく、インド人プライスで交渉してくれたのだろう。外国人旅行者からいかにお金を引き出すかに躍起になるここインドでは、きわめて珍しいことだった。良いガイドさんに当たると、旅は途端に快適になる。やるなエロ兄ちゃん、とちょっと見直していた。

部屋に入り荷物を降ろすと、僕はどさっとベッドに座り込んだ。「ふーっ」と一息吐いた。少し熱があるようだった。ここアグラまで二日間に分けて20時間の旅、エロ兄ちゃんとの道中はとても楽しめたが、やはり少し疲れていた。なんとなく体調も良くなくて、お腹も壊し気味で熱もあるようだ。しかし旅も3週間も過ぎると、それなりに耐性も付き、ちょっと位の熱やお腹の調子は気にしなくなった。僕はシャワーを浴びた。インドで体調が良くないときは、シャワーでさっぱりがなにより効果的だった。シャワーを頭から浴びながら、ゆり子からのメールの「話したいことがあるの」がとても気になっていた。それでも僕は話す勇気がなくて、「また連絡するね」とメールで返信をし、それ以来連絡はしていなかった。僕は体調はそれほど良くはなかったが、気持ちは落ち着いていて、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごせていた。ベッドに寝転がると、自然にゆり子のことを考えていた。今では朱里のことが少しずつ頭から離れていき、ゆり子のことを考える時間が増えていた。ゆり子の元に戻ろう……。そんな気持ちが再び広がっているのは確かだった。僕はようやくゆり子に電話をしてみようという気持ちになり、バッテリーの切れた端末を充電器に刺した。しばらくすると充電開始のランプが付いたが、きっとまだ電源は入らないだろう。僕はじっと携帯電話を見つめていた。するとなぜか忘れていたかのように胸がドキドキと鼓動を速めた。僕は嫌な予感を感じていた。きっといつ電話をしても、ゆり子は僕の電話を喜んでくれる。それは疑いの無いことだった。しかしそれは今では過去の価値観となっていた。僕はゆり子に電話して、それを嫌という程思い知らされる……。

* ゆり子との今までで一番短い電話

僕は2週間ぶりにゆり子に電話をした。6回目のコール音がしてゆり子は電話に出た。

「もしもし……」

と言って電話に出たゆり子からは不穏な気配が感じたられた。ゆり子からの今までに感じたことの無い気配だった。

「もし、も、し?」

その気配を感じて、僕はすぐに言葉に詰まった。

「な、何してるの?」

と僕は言った。

「うん、今雑誌を見ていたの。びっくりしたわ」

「え、ご、ごめんね、電話、できなくて……」

「ちがうの、今高山くんに借りたフライトの9月号を見ていたのよ。そうしたら高山くんから電話があったの」

「そうなんだ、そ、そっか、ゆり子の部屋にあったんだね、そうだそうだ、貸してたね」

僕の動揺は止まらなかった。

「今日ね、わたし高山くんから貰った物とか、思い出のある物を整理していたの」

「え?」

「わたし、彼と……、前に言ったあの不器用な彼、覚えてる?」

「ん? うん」

この鈍い僕でもさすがに気がついた。ゆり子の決心が伝わってくる。それは僕を一瞬で不安の底に突き落とした。みるみる僕の体は震えてゆき、声は声帯を振るわせず、空気がすうっと揺れる程度の言葉にしかならなかった。

「彼に言われたの。『あなたのことが好きです。一緒に人生過ごしてゆきませんか?』って」

「え?」

僕は全身を隈無くドキっとさせて、ふらついた。

「『え?』でしょ? わたしプロポーズかと思ったわ」

「え⁈ 結婚、する……の?」

僕は震えた声でそう言った。

「まさか、しないわよ。ふふふ。だけど……、だけどわたし彼とつき合うことにしたわ。わたしたち本当に似た者同士なの、それでね……」

ゆり子はまだ話しを続けていたが、そのあとゆり子が何を言ったのかなんて、なにも耳に入らなかった。僕はゆり子が「彼と付き合う」と言った瞬間、まるで自分の背骨でも抜き取られたかのような喪失感を味わった。無くした。僕は無くしてしまった。そして何かとんでもないことが起こったと頭は認識をしているのに、この期に及んで意地を張った。僕は、大バカのとんとんちきバカ野郎の、2回もバカが入る馬鹿バカ野郎だった。

「そ、そうなんだ、そっかよかったね」

ゆり子の話がひとしきり終わると、僕はできる限りの冷静を装ってそう言った。しかし胸の内は激しくゆり子を叱咤していた「なんだよそれ! 僕に戻って来て良いよって言ったじゃないか! 僕のこと待ってたんじゃなかったのかよっ! くそっ!」僕はそんな都合の良すぎる汚い本音を胸の中で吐き捨てた。しかし口に出してなんて言えるわけが無かった。

僕は無意識だったかもしれないが、自分の安心を得る為に、ゆり子の存在をここまで軽く扱っていた。これ以上無いほどの自業自得だった。

そしてゆり子は、

「うん……」

と寂しそうな小さな声で言った。

「ちょっと今体調が悪いから切るね」

ゆり子へ大きな罪悪感を感じながらも、不満に思う気持ちが隠せなくて、これ以上話していたら汚い本音をぶつけてしまいそうで怖くなり、電話を切ろうとしてそう言った。

「わかったわ、お大事にね」

「うん」

「じゃあね」

ゆり子の言葉には、僕を気遣うような気配が感じられなくて、とても寂しく不安だった。

僕らは電話を切った。ゆり子との、今までで一番短い電話だった。

つづく

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