小説「チェリーブロッサム」第41話

* エロ兄ちゃん

「モウアグラデスヨ」
新しいガイドの兄ちゃんが、次の目的地でタージマハルがある「アグラ」にもうすぐ着くと言った。そして数時間前にももうすぐ着くと言っていた。まだまだ道のりは長そうだった。
僕は日本に帰ってからもこの兄ちゃんの名前がどうしても思い出せなくて、しかたなく「兄ちゃん」と呼ぶことにする。
雇ったタクシー運転手の兄ちゃんは、話を聞くと同じ年だった。老けていた。老けていて尚、下ネタが何よりも大好きで、ずっと卑猥な日本語を教えろとしつこかった。そしてなんとしたことか、兄ちゃんは日本語がまるでだめだった。僕はクマールさんに「日本語が喋れる人」とリクエストを出すのをすっかり忘れていたのだ。
待ち合わせ場所に行くと、車を磨きながら待っていた兄ちゃんの表情はニヒルだった。サングラスをかけてニヒルなポーズで片手をボンネットにのせ、片足を軽く交差させながら僕に「こっちだ」と手を挙げていた。初見こわもてな顔の兄ちゃんだったが、内面は陽気で優しいエロい兄ちゃんだった。
僕は開き直っていた。「英語くらいなんてことはない」と思えていたのだ。僕の局面でのメンタルの強さには、自分でも驚いていた。こんな自分が隠れていたなんて。これが日本だったら僕はきっと学校で1位を取れるほど、ものすごいスピードで反復横跳びを飛びまくり、右往左往したことだろう。しかしインドでの僕は違っ……
「ヘイ! ヘイ! ……ヘイッ!」
僕が兄ちゃんとの出会いを振り返って意識を飛ばしてると、大きな呼び声で呼び戻された。あまりに大きな声で話しかけられたので、僕は事件でもあったのかと思い、意識を取り戻しながらも慌てて耳を傾けた。そして僕は「What’s?」と言って兄ちゃんを見た。
そして兄ちゃんはしきりに何か言っている、当然英語である。ジェスチャーと片言の英語で必死に聞き取った言葉は……
「ニホンゴ デ、 オンナ ノ アレ ハ ナンテ イウ?」
は? へ? こ、この人は馬鹿でいらっしゃるのですか? 僕は思わずフロントガラスに頭をぶつけるほどびっくりした。まだまだ中学生レベルでしか英語を認識できない僕なのに、必死になって聞き取った兄ちゃんの言葉は「日本語で女性のあれの言葉を教えろ」だった。「あれ」とはまさに「アレ」だった。
自分の耳までが真っ赤になる様子を、鏡を見ないでも確認できた。そして急激に怒りにも似た「やっぱりばかだ、ばかだ! それ知ってどうすんだ? この兄ちゃんが特別なバカなの? それともインド人全部がこうなの? いやいや、こんなことを聞いてきたインド人はこの兄ちゃんが初めてだ! そしてきっとこれはかなりの珍事なはずだ」ばかばかと連呼しながらも、日本に戻れたらこれを話の掴みにしようとしっかり心のファスナーの中に仕舞い込んだ。
僕は兄ちゃんからの質問に腕を組み、「うーん」と言いながら首を傾げ、悩みに悩んだ。僕はこれでもそれなりの「純情」さは持ち合わせている。どこかの引き出しの奥に、賞味期限がすぎたフィリックスガムとでも一緒に転がっているくらいの代物かもしれないが。
僕は日本人の名にかけて、堤防だ、堤防にならなくてはならない! 僕がこの堤防を欠壊させたら、次から次へとやってくる日本人に、インド人がその言葉を浴びせてくるだろう。もしそれが女性だったら僕は謝っても謝りきれない。旅人の女性にそんな恥をかかせるわけにはいかない。自分がここでミスをしたら、日本人の倫理の堤防は欠壊だ!
僕はこんな質問はぐらかせば良いものを、純情に真剣に考えてしまったのだ。そして僕の脳内CPUがトラブルシューティングした結果はなんと。
「あ、『あそこ?』かな……、へへ……」
おい今おれ「あそこ」って言った? ばか? ばかなの僕は? 僕のほうが馬鹿なの? 「アレ」より悪化させていないか? 猛烈な不安が僕のハートをなぎ倒していった。僕は兄ちゃんの方を向き、どんな反応をするか不安に見守った。兄ちゃんは考えている、考えているぞ……。「兄ちゃんの思考」と言う水面の波紋がさわさわと動きだし、「日本人の気持ち」という堤防まで押し寄せてきた。不安だ、不安すぎる……。その波紋は、その堤防の最上部の丸みぎりぎりに沿って、乱れることも無くまた内側へ小さな波を揺らせながら戻って行った……。ぎ、ぎりぎりセーフのようだった。兄ちゃんは受け入れたようだ! これで次から次へとインドへと押し寄せる日本人が、インド人から「あそこ、あそこ」と浴びせかけられたとしても、それは単なる場所を指し示す言葉として認識されるであろう。「アレ」よりはちょっと悪化させているかもしれないが、ぎりぎり日本人としての純潔は守った。「守ったぞー!」僕は必死に辿り着いたその山の頂きに、日の丸の旗を突き刺し力の限りに叫んだ。
「『あそこ』もわるくないぞー!」
ベースキャンプからは、
「やりましたねっ! 『あそこ』なんてなかなか思いつかないですよ!」
「相手のムチャな質問を無視しないで登頂するなんてバカですね! ほんとバカですね! どーぞー」
と何度も無線で祝福を受けた。そうバカであることは間違いなかった。妄想の中のベースキャンプ司令室では、ミニスカートのブロンド女性が机の上の無線機に向かい、何度も「バカですね!」と頂上にいる歓喜の僕に叫んでいた。
僕はガイドの兄ちゃんの横顔を見た。兄ちゃんは軽快に口笛を吹きながら「アソコ、アソコ」とすこぶるご機嫌だった。僕のほうは猛烈な不安に襲われて、虚ろな白目をしながら山頂に刺した旗を静かに引き抜いて谷底に捨てた。それ以降何があろうと僕は無謀な挑戦はしないことを、日本全土の旅人に誓った。そのあとも兄ちゃんは、まだ僕が教えた「場所」にまつわる名詞を陽気に叫んでいた。しかしそんな兄ちゃんを見ていたら僕の悩みなど吹き飛んだ。なんだか兄ちゃんのアホさに救われた、新たに始まった旅はとても楽しかった。
ひたすらタクシーを走らせるエロ兄ちゃん。エロ? 僕はいつしか、タクシーの運転手付きガイドさんから、運転手の兄ちゃん、そしてエロい運転手の兄ちゃん、今では「エロ兄ちゃん」と呼んでいた。まるで出生魚の「ブリ」のように僕らは慣れ親しんでいった。 僕を乗せてこのインド大陸を颯爽と泳ぐエロ兄ちゃんと僕を想像した。

つづく

FacebookTwitterGoogle+PinterestTumblr