小説「チェリーブロッサム」第37話

夜明けが始まった。地平線の滲んだ7番目の赤は、今では弧を作り出しながら、激しく燃え上がろうとしていた。生命の誕生だ。僕に何かの生命が宿るような力強い感じを受けた。夜明けが映りだしたガンジス川は、赤黒いオレンジ色に染まりだし、波間に漂う手漕ぎボートはシルエットになって浮かび上がった。毎日毎日ここガンジスで太陽は生まれ、そして死んで行く。まさに誰もの目で見える輪廻転生が繰り広げられている。荒野の果てからじりじりと神秘的で神々しく昇る太陽の光を、僕はただただじっと見続けた。
今自分の体の中にどのような感覚があるのか、それだけに意識を集中した。僕は登りつつある太陽を大きく視界に入れながらも、やや視線を落とし、自分自身のすべてを観察した。足のつま先から踝、すね、膝、腰、お腹、それから手の先から、腕、そして胸から首まで。それぞれの体の部分に何があるのか、それを確認し慈しむように、僕は自分の皮膚感覚とエネルギーの動きに耳を澄ます。まずはお腹の辺りに大きな広がりを感じた。僕はそれに「こんにちは」と挨拶をした。
その広がりは狭くなったり広くなったりをゆっくりと変化させていて、黒に近いブルーグレーのような色のトーンを感じた。それはやがて淡いベージュのような色に変化しながら、胸の中の空間を、さらにゆっくりとしたリズムで広がっていった。お腹の辺りにあったブルーグレーのような色の感覚がいた場所には、新しくスカイブルーのような、さわやかな気配が満ちていた。それを認識したあとは、胸に広がるエネルギーに意識を集中した。しばらくその広がりに「そこに居ていいよ」と声をかけ静かに見守った。
目の前に描かれている昇り来る太陽の一端が、これから現れるはずのその全容が想像以上の大きさだと僕に教えてくれていた。燃え揺るいながら昇る太陽が全ての姿を現したとき、僕は全身を赤色に染められながら、その自然の威力に圧倒された。その存在に衝撃を受けた僕は、フラッシュバックのような意識の断裂までも呼び起こした。とてつもない早さで僕の記憶が目の前を流れていく、一瞬で……。僕の鼓動は数段早まったが、体中の隅々の細胞まで酸素を送るようにゆっくりと呼吸をすると、また僕の鼓動は何事も無かったような早さのリズムを取り戻した。リズムを取り戻すと、僕の胸の辺りに存在した淡いベージュのような色の広がりは、揺らぎながら佇む太陽と同じような、濃いオレンジ色へと変化をした。そこに意識を通して触れると、熱い温度さえ感じられた。僕はその感覚達を、裁かず自由に表現させた。僕の胸の中は幸せに満ちていた。僕は自分の中の何かと繋がった感覚を確かに感じた。僕はそれを十分に感じていると、ある閃きを感じた。僕はゆり子と一緒に居るべきだ。ゆり子と一緒に居たい。とその胸の感覚は、僕自身に強く訴えていた。

ゆり子が言っていたその彼についてしばらく考えていた。僕の中に確かに焦り、というものを感じた。しかしゆり子は僕のことを好きだと間接的に伝えてくれた。今のこの焦りという気持ちに対して、それほどの意味は無いように感じたし、それ以上は何を考えていいのか分からなくて、その引き出しを静かに閉めた。そのあとは、僕が今まで生きてきた人生や、ここまでの旅の道のりで感じた感覚たちを、胸の中の引き出しから全て取り出し丁寧に並べ、一つずつ手に取るように観察し味わった。それをしっかり感じきったあとは、要らないものには「ありがとう」と伝えて優しく手放し、要るものには「またよろしく」と挨拶をして丁寧に引き出しに戻し、胸の中にしまった。新しい引き出しに入れた「ゆり子の存在」の隣には、同じようなスペースが確保された「朱里の存在」も入っていた。ガンジス川の巨大に燃える太陽を以ってしても、僕の煮え切らない気持ちを焼き尽くすことはできなかったようだった。しかしゆり子の気持ちの時間は、それほど長くは残ってはいなかった。
僕はそのあと、バッグの中にあるハルキの文庫のことを思い出したが、僕にはもう必要がないような気がした。結局この旅でこの本を開くことは、もうなかった。
そのあと僕は自分の閃きに従い、これからの旅で感じることを仕舞える引き出しを胸の中に用意し、どんな物がその引き出しに入ってもかまわないように、丁寧に修復し、清潔にしてから新たな場所に置いた。僕の胸の中は満足感で満ちていた。旅に来れたことの喜びを、心の底からじんわりとゆっくり噛み締めた。

心行くまで味わった夜明けの太陽は、もう目線を上げる高さにまで登っていて、すっかり朝日となってガンジスを照らしていた。
そこで僕は大変なことに気がついて、突然叫んだ。
「あっ、写真撮り忘れた!」
愕然とした。自分の意識の中に入り込みすぎた僕は、ガンジス川での最重要ミッションとも言える「夜明けの写真」を撮り忘れたのだ。あんなに煮込んで買ったニコンのカメラ……、この夜明けがニコンにとって、もっともハイライトなシーンになるはずだったのに。最高の出番を撮り逃したニコンを僕はしばらく眺めた。なんだかとても寂しそうだった。
「もうしわけないっ」
カメラに向かってお辞儀をしながら謝った。しかしまだバラナシでの滞在は始まったばかり、「そうだまた別の日にでも撮れば良いんだ、そうだそうだ」と簡単に気を取り直し、登りきった朝日が差し込むガンジスにカメラを向けてシャッターボタンを押すと「カシャッ」と気持ちの良い音が耳に響いた。そのままのポーズでファインダーから目線だけを外し、ニヤッとした。その景色が美しくて、カメラを下ろしあらためてガンジスの流れに目をやった。燦々と注ぐ朝日がきらびやかに眩しく照らす光景が広がっていた。ガンガーの流れは細かいうねりを無数に作り、その一つ一つが違う表情で光を照らし返していた。沐浴をする人々や手漕ぎボートで観光する人々、その中には日本人も何人か見えた。無数の人々で蠢くここガンジスのメッカ、ダシャーシュワメード・ガートには、ここでしか味わえないだろうという活気と人の強さと優しさが感じられた。と感慨に浸った次の瞬間、僕は唐突に肩に蛇を巻いて写真を撮られていた。しかも僕のニコンで。
僕はガンガーの夜明けに満足し、やっと腰を上げて歩き始めた所で、いきなり蛇使いに捕まり、強引に巨大な蛇を肩に巻かされていた。「やれやれ」とでも言い出しそうな苦笑いを浮かべ、僕は自分のニコンに収まった。インド人の商売魂は素晴らしい。そしてまた僕がむしり取られた料金は、インド人にしてみれば大喜びな金額だったに違いない。そんな姿をした僕を見つけたオムさんは、なんともいえない苦い笑いを浮かべていた。
その3日後に、僕はもう一度夜明けを見に行った。やはり心の底から感動をしたのだが、初めて見た時のあの感覚を僕はもう感じることはできなかった。

つづく

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