小説「チェリーブロッサム」第35話

* ゆり子の心と、ガンジスの夜明け

ガンジス川までは、車でバラナシの街中を通って行った。街中といっても、ほとんどの路面の舗装はがたがたで、道の両脇は凄まじい量のゴミだった。そしてデリーでも牛なんかは見かけたが、ここは聞いていた以上の動物天国だった。まだ暗いけれど、あちこちで牛が堂々と歩いたり休んでいたり、犬や鶏、ヤギまで自由に歩いているがよくわかった。ヒンドゥー教徒は牛を大事にしていて、絶対に食べたりしないし、痛めつけたりもしない。そして牛それぞれにはきちんと飼い主がいて、どの牛が誰の牛なのか、周りに居る人はちゃんと分かっている、とオムさんは教えてくれた。そしてまたこの牛が避けない。車だろうと自転車だろうと。堂々としてる、というか周りがまったく気になっていないようだった。ま、牛なんてそんなもんか。そんな牛達を見ていると、いつもおどおどしている自分がちょっと気恥ずかしくなった。そして牛は「もおー」と教科書通りに啼いていた。
オムさんは車を止めて僕を誘導して、日の出を見る場所まで案内してくれた。大きな建物が密集して建ち並ぶ、僕が夢見た「ダシャーシュワメード・ガート」だった。オムさんは「ココ デ ヒノデ ヲ ミル コト ニ イミ ガ アル ノダ」とさっきまでとはがらりと表情を変え、やや神妙にゆっくりと目を閉じながら僕にそう説明してくれた。オムさんは、このインドでインド人として生まれ、インドを全身で感じながら生きている、生粋のヒンドゥー教徒なんだなと感じた。このガートに立つと、オムさんの今までの人生で感じてきたことまで受け取れるような気がした。オムさんは僕をその場に1人にし、またしばらくしたら迎えに来ると言って姿を消した。それでも僕からも見える離れた位置に座っているのが見えて、まるで僕を見守ってくれているようだった。良いガイドさんだな。オムさん自身が1人で心行くまで「感じる」ということを、何より大事にしてるんだろうと僕は理解した。しかし後で聞いてみると、ただ単純に、昨日奥さんを散々怒らせてしまったまま家を出てきてしまい、隣で電話も気まずくて、ちょっと上の方で離れてぺこぺこと電話してただけさ。と言って笑っていた。奥さんに怒られると私すぐ泣いちゃうよ。と言っていたが、奥さんのことがとても好きなんだな、とオムさんの顔を見たらすぐにわかった。あれだけにやけていれば。
インド最大の宗派である、ヒンドゥー教の三大神の1人「シヴァ」、そのシヴァ神の豊かな髪が天上界から降り注いだ水を受けてヒマラヤ山中に注いだ。それが今目の前で悠久の時をかけて流れ続けるガンジス川の源と言われている。僕は今、神の流れの前にいるのだ。やっと来た、やっとここまで来れたのだ。僕は感慨深さにするすると飲み込まれそうになったが、座ったまま前を見て、夜明けが始まるのを静かに待った。
建物で覆い尽くされたガートの対岸は、宗教上では死のイメージを持つ不浄の地とされている。誰も住むことの無いどこまでも続く砂の地には、建造物も人の気配も何もなかった。そしてその不浄の地を背景に、まさに今太陽が昇ってくるのだ。僕はまだ暗闇の中でガートにひっそりと座り、石のひんやりとする感覚に心地よさを覚えた。体調も朝起きたときよりもだいぶ楽になっている、良い夜明けが見れそうな予感がした。
しばらくすると対岸の地平線が赤く染まり始めた。僕は目を離さないようにじっと見つめた。じわじわと昇る夜明けの太陽の光が空気中のチリに屈折され、7色に分けられた光の7番目の赤を、僕の網膜に届けていた。その7番目の色を見つめながら、ゆり子と知り合ってすぐの頃、僕に話してくれたゆり子自身のことを思いだしていた。人との繋がりなど、苦労したことの無いように見えたゆり子は、僕に信じられないような過去の悩みを打ち明けてくれた。僕はゆり子の話しに静かに耳を傾けていた。

「ねえ、きみは自分の気持ちに手が負えなくて、苦しんでいるようにわたしには見えるけど?」
「わかるの? ゆり子さん、僕はとても苦しいんだ……。なんで僕は人とうまく距離を取ったり、近づいたりできないんだろうかって、いつも誰かに怒られそうな気がしてて、いつだって寂しいんだ。なんだかわからない得体の知れない寂しさのようなものから、離れられないんだ。親とのことでこんな考えの人間になってしまったのかな、うちは家族なんてなかったようなものだったから。父親は僕ら家族を捨てて居なくなったし、母親からは優しい言葉なんて聞いたことも無かった……。いつでも僕から貰うお金のことが何より大事みたいだった。僕はいつだって愛されたくて堪らないよ」
そう言うと、僕は自分の気持ちを吐き出し過ぎてしまったことに、少し気恥ずかしさもあり俯いてしまった。
「そう。それは苦しかったわね……、大丈夫よ、わたしがついているから」
僕の話を聞いた、真剣な表情のゆり子の目には涙がにじんでいて、俯いた僕の肩にそっと手を乗せ、慰めるようにさすってくれた。そしてしばらくそうしてからそっと手を引いてまた僕と顔を合わせた。
「ありがとう、うれしいよ」
きっとゆり子が僕を救ってくれる、そんな気がした。しかしその、相手に救ってもらうという考え方が、僕自身を苦しめ、僕とゆり子を切り離してしまったのだが。
「だから僕は人からの愛情がこんなにも欲しいのかな、この得体の知れない寂しさと、他人からもっともっとと愛情を欲しがってしまう自分が苦しいんだ。ゆり子だってこんな僕じゃ嫌だよね……」
「気持ちとてもわかるよ……。ねえ?」
「ん?」
「きみはわたしのこと、健全な精神の持ち主だって思ってる?」
「うん、僕もゆり子さんみたいにいつもニコニコと誰とでも遠慮なく話したいし、相手が嬉しくなるようなコミュニケーションをしてみたい……でもとてもできないよ」
「わたし、高校生の頃学校に行くのがとても怖かったの。いつも誰かに見られている気がしたし、いつも被害妄想で学校のみんなから嫌われてるって思ってて、みんなの話す言葉なんかをいつも見張ってた。頭が変になりそうなくらい苦しんでいたわ。そしてあの何かと繋がれないような気持ちの悪い感覚が、とてもきつかった」
今度はゆり子が俯きながらそう言った。
「え、ゆり子さんが⁈ 本当に? そんなのとても信じられない」
僕はとてもびっくりして少し大きな声で言った。
「そうよね、自分でもこんなに人と楽にコミュニケーション取れるようになるなんて、当時の自分からしたら信じられないことだわ」
ゆり子は顔を僕に向けて、口角を少しだけ上げながら微笑んでそう言った。
「どうしてそんなに変われたの?」
「結論から言うと変わってなんかいないわ、わたしは何も変わってはいないの。今でも人との繋がりを怖がることなんて山のようにあるわ。でもね、あるカウンセラーの先生から教えてもらったことがあるの。そのカウンセラーっていうのは叔母なんだけど、母の妹で、心理カウンセラーを生業にしていたの。生きるのが辛くて仕方がなかったあるとき、叔母の所に駆け込んだの。あとから母に聞いたんだけど、叔母はその世界では知る人ぞ知る有名人だったの。芸能人や政治家や企業のトップ達も叔母のセラピーを受けていたのよ。今世界のトップで活躍している人間って、何かしら自分に合ったカウンセラーと二人三脚で活動するのは当然の常識なんだって。自分の心をメンテナンスするって何よりも大事なことなんだって。わたしもその大事さを自分自身実感したわ。そんな叔母は家も近かったし、毎日のように会いに行ったの。子供がいなかった叔母は、わたしが来ることはとても喜んでくれてね。わたしが来るような時間帯にはカウンセリングの予約は決して取らなかったみたい。そんなことも何も知らずにね。わたしのせいで、叔母の収入はだいぶ減ったと思うの、そこまでして……。わたし叔母のことが大好きなの。わたしが駆け込んでしばらくしたある日、叔母がある心理療法を教えてくれたの。カウンセリングの現場でもっとも基本となるフォーカシングという技法よ。別に椅子にコード付けて何かするとか、頭に電気がびりびりして無理矢理、とかそんなこと当たり前だけどなくてね、ただわたしに話しかけて誘導してくれたの。何だと思う?」
ゆり子は首を少しだけ傾けながら、僕を覗き込むようにニコっとして言った。
「検討がつかないな、思考……の切り離し方とか?」
「そうよね、普通は頭の中でわたしたちの感情は動いているって思うわよね、科学的にも感情は脳のある一部で作られると言われているけど。叔母はこう言ったわ」
と言ってゆり子は目をつぶりながら話しを続けた。

つづく

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