小説「チェリーブロッサム」第34話

* ホテルインディア

15分程で宿に到着した。僕は具合が悪くて、どんな宿なのか把握する気力も無いまま部屋に案内された。部屋に入るとすぐに、オムさんはゆっくりと丁寧に単語ベースの英語で明日の予定を伝えてくれた。
「ネクスト モーニン、スリー オクロッ、 デパーチャー オウケイ?」
「オウケイ、オウケイ」
と応え、明朝3時に出発するということを理解したことを伝えた。そのあとオムさんはすぐに部屋をあとにした。
1人になると部屋は耳鳴りがするくらいにシーンとした。部屋の中を見渡すと、あまりインドを感じさせない奇麗な造りの清潔な部屋だった。インド式ビジネスホテルだろうか。熱は思ったより高そうだったが、汗だくの身体を流したくて、さっとシャワーだけ浴びて、すぐにベッドに寝転んだ。倒れ込んだベッドからは、すぐに寝息と「ファン…タ…。オレ…。…グレ…。どっち……」寝言にまで。
午前3時前に僕はがばっと起きた。まだ窓の外は真っ暗で、それは完全な夜だった。体を起こすとまだ明らかに体調は悪かったが、昨日よりは少しだけ軽くなっているようだった。昨晩だるい体でも無理をしてシャワーを浴びたのは、起死回生とまではいかないまでも、正解だったようだ。汗を流すのは旅の疲れを取る最大の秘訣だ。
携帯電話を開くと一件の着信があった。番号を教えているのは朱里とゆり子、そして何かの時にと一応知らせた母親だけだった。母親は僕に電話など、お金の用事がある時にしかまずかけてはこない。ましてや国際電話までして何かお金のことを言ってくるとは思えなかった。朱里だろうか、ゆり子だろうか。僕は一先ず携帯電話をしまった。

ロビーに降りて僕は愕然とした。それはもう「宿」なんかではなく、「豪華ホテル」といった方が早そうな華やかさだった。だだっ広く燦然としたロビーには、きらっきらの装飾があちこち施されていて、びしっとスーツを着たフロントマンが、すでにこの時間からきびきびと仕事をしていた。僕は口をぽかんと開けてそのロビーを見回していた。「なんだこれ、やっちゃったか?」と真っ先に財布を心配した。そしてオムさんが僕を見つけて大きく手を振っている。インド人はどうしてみんなこんなに大きく手を振るのだろうか。子供も大人も。それだけ陽気な民族ということなのだろうか。僕は左右をキョロキョロ見ながらオムさんに近づいた。
「すごい豪華ですね?」
「ソウ、ホテルインディア、ココ バラナシデ、イチバン!」
「えー! ……」
貧乏旅行をするつもりも無かったが、かといって豪遊するつもりももちろん無く、やられた感は僕の両肩を少し下げさせて、お腹の前にぶら下げていた財布からは、お札がぱたぱたと飛んで行く幻覚が見えそうだった。そして飛び立つルピー札を僕は眩しそうに見送った。
僕のバラナシでの滞在は1週間だった。宿代も日本ならそれほど高くなくて、まあいいかと思える程度だったのだが、ここインドでは話は違った。文化の違いもあれば物価の違いもある。日本の価値観で安いと思い、旅行者向けの割増料金で散財する日本人が大部分なのだろうか。それでは日本人が都合のいい商売相手になってしまっても無理は無かった。そして僕の認識もその程度だった。僕はバラナシで一番と言われているのに、日本の価値で物価を見てしまっている。それは旅人とはいえなくて、ただの旅行者なのかもしれない。 ここの宿代程度の出費なら、旅にそこまで影響もなかったし、一晩泊まっている以上、嫌だとも言えなかった。チェックインの時に金額を聞かなかった僕のミスだった。ガイドさんに丸投げしていたらこうなるよな。と開き直り胸をはり、仕方なくフロントに宿代を納めた。
「キョウ サイコウ ヨ、テンキ バッチリ、スバラシイ ヨアケ ミレル ヨ!」
とオムさんは上機嫌で空を指さすようにそう言った。オムさんの天気もどうやら上々のようだった。そんなほっかほに温まり切って現れたオムさん。こんな真夜中からでも人はそこまで陽気になれるのか? もしかしたら寝てないのか? 日本人のガイドは儲かるから嬉しいのか? そりゃ一番良いホテルを紹介したらキックバックも旨みたっぷりだろう。

オムさんの肩が温まりきっているのは明らかで、いつでも豪速球を投げてきそうなやる気を放っていた。僕はそんなほっかほかのオムさんを見ていたら、宿代くらいでぐちぐちしていた自分のセコさも吹き飛び、なんだか楽しくなって来た。僕は眠い目をごりごりとこすりながら「オッケーです、行きましょう!」と空元気で言った。
宿代が少し高くても僕の意識はもうガンジス川に身を任せていた。僕はもうガンジスを流れていた。
僕は旅をしている。また改めて、自分が自分の意志で身を置いた場所に胸を躍らせた。

つづく

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