小説「チェリーブロッサム」第33話

* バラナシ駅

時間はもう真夜中だったが、ホームでは沢山の人が歩いていたり、あちこちで荷物に丸まって眠る人たちもいた。真夜中でも活気のある光景に少し気持ちも押されたが、何よりもこの憧れの地に今、手負いながらも自分の両足で降り立った。それは何よりの充実感だった。
よくわからない文字の案内板はまったく役に立たなかったが、なんとか駅の外に出ることができた。外はこの時間でも40度はありそうな熱気が一瞬で僕に纏わり付いた。しかしそんな熱さにもかかわらず、まだまだ体調も良くなくて汗はでなかった。まだこの体調不良の山は越えていなさそうだ。ま、汗が出始めればそこからは良くなるだろう。

ガイドさんからは駅前のロータリーで待っていてほしいという約束だったが、それらしい人はおらず、外は街灯も少なく心細かった。沢山のインド人が行き交っており、真夜中と言うこともあり、僕は心細さの中身構えながら歩いた。具合も悪くふらふらとしていたので、ロータリーの端の段差に適当に座り待つことにした。時間もちゃんと伝えてあるし、そんなに心配はいらないだろう。周りに目をやると、段差に沿って沢山のゴミが落ちていて、ときおり小さなネズミが姿をあらわして、忙しそうに良い加速をしながら僕の目の前を通過した。きっとネズミにとって夜は搔き入れ時なのだろう、がんばれねずみくん! と僕はエールを送った。しかしエールを送られたいのはおれの方だよな。と弱気な体育座りを極めている僕は、心細くガイドさんを待った。……30分くらい経った。「ほんとに来るのか?」と僕は不安になったきた。しかしあんなに良くしてくれたクマールさんの紹介だ、きっと来るはず。これも旅だと気持ちを切り替えた。

僕はせっかくの長い道のりを経てたどり着いたこの憧れの地。僕は歩いたほうがまだ気が紛れると思い、気を取り直して目の前のロータリーでも散策してみることにした。少し離れた場所に、燦々と明かりが付いる露店が目に入った。腰を上げてバックパックを肩に担ごうとした瞬間、体調の悪さと重なったのか「おもっ、荷物こんなに重かったか?」一度下ろしたことで気が抜けたのか、もう一度担ごうとした荷物は、別物のように重く感じた。一瞬違う人の荷物でも持ってきてしまったのかとまじまじとバッグを見た。しかしどうみてもそれは、バルタン星人をやっつけてまでして買った、正真正銘の僕のノースフェイスのバックパックだった。荷物の中身だって、選びに選んで決めたこの高山ジャパンの先発メンバーたち、どれ一つ要らない物など無い。僕はバッグをまじまじと見た。僕は一人旅だったけど、日本から一緒に来たこの荷物達を思うと、少しだけ心細さが和らぐのを感じた。

ずっしりと肩に食い込むバッグを背負いながら、明かりが付いている露店を目指した。近づいてみると、それは日本でいうところのキオスク。といったところだろうか。沢山の新聞が並んで刺さっていたり、よくわからない色々な品物がぶら下がっていた。当然どこにも日本語などあるわけも無く、おそらくヒンディー語だろうというロゴで埋まっていた。僕はなんだかそんな所にも旅を感じられた。お店の中を覘いてみると、若いお兄さんが狭い中でせわしなく動いて店を切り盛りしていた。ガラス扉の冷蔵庫の中を見ると、そこには見たこともない色の瓶入りのファンタ500mlが入っていた。確かに瓶には見慣れたデザインで「FANTA」と書いてあり、あのファンタであることは間違いなさそうだったが、しかしこの色はなんだ? なんなんだ? 僕は眉をひそめながらその瓶を睨みつけた。グレープでもなく、かといってオレンジでもない。強いて言えばその2色を合わせたような見たこともない色。しかし日本人の少年心をくすぐる馴染みに馴染んだブランドを信じ、僕はお兄さんに「これいくら?」と声を書けた。
「ファーイブ、ルピー」
と店員の兄ちゃんは答えた。財布から5ルピーをチャリンと鳴らしながら硬貨で渡した。兄ちゃんはにこっとし、栓を抜いて差し出してくれた。真夜中のひとりぼっちがその笑顔に救われた気がした。瓶はよく冷えていて、手に伝わる冷たさが全身をリラックスさせた。

まずはおでこに瓶を当てて、熱を冷やした。とても気持ちよかった。あらためてファンタのロゴをまじまじと見つめ、乾きにまかせてひと息で半分ほど飲み干した。味はやはりグレープとオレンジを合わせたような微妙な味だったけど、冷たいだけで美味しく感じた。瓶にまだ半分残っているファンタを揺すりながら、あちらこちらから眺めた。いったいなんなんだこの味は? と考察は続いた。気がつくと駅に着いてから1時間以上経っていた。僕はさすがに不安になり、自分で宿でも探さないといけないかな。と考えながらも、この真夜中の駅前をそれなりに楽しんでいた。

また僕はしゃがみ込んで目線を落としていると、頭の上から「ミナミ サン デス カ?」と声をかけられた。ぼーっと顔を上げると、そこにはバラナシでのガイド、オムさんが立っていた。「スグ ワカリ マシタ ヨ」僕はここでも純白に輝いたTシャツを着ており、遠くからでも目立ったようだ。僕は安心したのか声もなかなか出ずに、しきりに頭を下げていた。
オムさんは長身で少し茶色い髪の二枚目なお兄さん。インド人は年齢の感覚が日本人とはかけ離れていて、このオムさんは45歳くらいに見えたが、聞くと30歳と言うので驚いてじろじろ見てしまった。無事にガイドのオムさんとも合流ができ、挨拶もそこそこに車に案内され乗り込んだ。オムさんは遅くなってしまい申し訳ないとしきりに謝っていたが、僕は会えたことで何よりホッとしていた。最果ての地の駅でやっと救出されて安心している僕に、オムさんは恐ろしいことを言い出した。
「ヨル、バラナシエキ アブナイネ」
オムさんは神妙な顔で言った。
「アナタ、ヨク ヒトリデ イタヨ!」
とオムさんはにっこにこでこっちを見て言った。
「え! なんで⁈」
1人にさせたのはあんただろっ! と心の中で激しく突っ込むが、初対面の外国人に││いやここでは僕が外国人なのだが││対しては、それくらいのリアクションが精一杯の訴えだった。さらに話しを聞くと、去年ここで日本人が刺されて荷物を奪われたのだと言った……。僕は聞いた途端無言になってしまった。僕の不安を察知したガイドのオムさんは、
「ダイジョウブ、ソノニホンジン、シンデナイカラ、カカカカ」
と高らかに笑った。いやいやそうじゃねえだろっ! という意味の表情で、僕はオムさんの顔を「かっ」と見た。そんな危ない場所に1人にさせていたのかよ。まったくインド人は。僕は頭の中でそうぶつぶつと言っていると、リアルに自分が刺された場面が想像された。

高らかにエマージェンシーのランプの警告音を鳴り響かせ、僕は身体の不調も忘れて妄想に入り込んだ。……僕は刺されたあと、助けてくれたインド人の家に連れていかれた。目が覚めると麗しの美女がこちらを見ている。僕はこの美女は誰だろうとまた目を瞑った。そしてまた目を開くと、今度はその美女は朱里へと変わっていた。「悪い夢よ」妄想の中の朱里は言った。そして隣からゆり子が現れて来て「すべて夢よ」と言った。僕ははっと意識をフロントガラスの先のヘッドライトに合わせ、心の中で「ちがうちがうちがう、ちがうー」と連呼した。何が違うのかは自分でもよくは分からなかった。しかし何かが違ったらしい。自分の言葉のはずなのに、その言葉に何かが隠されているようで気になった
激しく思考を回転させていると、また熱が上がってきたような気がした。しかしオムさんの陽気な高笑いに、楽しい旅が出来そうだとうきうきしている自分がいた。ここはあの聖地バラナシなのだ。あとはもうガンジスに身も心も任せて流れるだけだ。そう思うと少しだけロマンチックに鼻歌を鳴らした。アジャンダさんは僕の鼻歌を聴いて、
「ソレ ナンテ イウ キョク デス カ?」
と聞いてきた。
「え、曲? ただの鼻歌です、ノーズソング、ノーズね」
と言って僕は絶対に伝わらない英語を言いながら自分の鼻を指差した。オムさんは理解できたかどうかは分からないが、ただ「オウケイ、オウケイ」と言いながら、街灯が一本もない暗闇の中をヘッドライトを頼りに、かなりのスピードで車を走らせた。日本の道路ではありえないような暗闇の道。そんな暗闇の中から時折現れる対向車のヘッドライトを目で追いながら、車の流れに合わせて何度も後ろを振り向いた。

つづく

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