小説「チェリーブロッサム」第32話

* 朱里からの不意打ち

インドに来て初めて朱里と電話が繋がったのは、バラナシへ向かうこの苦しみの列車の中だった。デリーで僕はわざと朱里に電話をしなかった。僕に関心を向けてほしかったからだ。きっと連絡がなくて心配をしているだろう。今電話をしたら、心配して僕を怒ったりするだろうか。僕は卑怯だった。してほしいことをしてもらうために、相手の気持ちを揺さぶる。それは僕の朱里への依存心だった。朱里に対していつも持っている不満は、実は朱里が僕に持ってる不満と変わらないことなのかもしれない……と頭に過った。
本格的に熱が出て来たようだった。僕は純粋に朱里の声が聞きたかった、聞きたくてたまらなかった。余計なことはもう考えず、ただ朱里に電話をすればいい。僕は発信のアイコンに触れた。
「だれ……?」
9度目のコールで朱里は電話に出た。国際電話の知らない番号からの着信だったかもしれないが、朱里の警戒する声で、僕は少し身を縮めた。国際電話の着信は僕からの電話。という発想はないんだな、と思うと少し寂しかった。
「もしもし、朱里⁈ みなみだけど」
僕は後ろ向きな気持ちを無理矢理拭い捨て、気持ちを高揚させて朱里に話しかけた。
「あ、みなみさん?」
朱里は、僕からの電話だと気がついても、やはりなんていうことのない平坦な声で、僕の気持ちは一気に沈んだ……。けれど僕はそんな気配を悟られないように話を続けた。
「そう、今デリーからバラナシまで電車で移動してるんだけど、水にあたっちゃって大変なんだよ……」
気配を悟られないようにと思っても、今の体調では頑張っても元気な声は出せなかった。
「え、よくきこえないよ? どうしたの、具合でも悪いの?」
朱里の声に心配するトーンが含まれていて、僕の気持ちに光が射した。
「うん、最悪だよ実はさ……」
そして僕はその最悪な顛末の話しをした。
「あははは、おもしろい、いきなり具合悪いの?」
朱里は明け透けに笑った。僕は唐突に笑われたことでじりっと怒りが湧いた。本当にどうかなってしまうんじゃないかというくらい苦しんだのだ。しかし僕はその湧いたばかりの怒りをぐっと飲み込み平静を装った。ゆり子のからかいとはまるで違う悪意を感じていた……。
「そう、今日乗った電車でキュウリみたいのもらってさ、それ食べたらお腹ぶっこわれて今エンジン焼き付いてるよ」
「やばいねそれ、エンジンばらせるの?」
「ばらせないからドレン抜いたよ、もうオイルだだ漏れだよ」
「ひゃー汚い!」
バイクネタはやはり僕らの距離を縮める。とは言っても、当たり前のように朱里には僕の切迫感は伝わらなかった。しかし会話が少しは弾んだので、僕のお腹も無駄死にではなかったようだった。
「そう言えば、みなみさんもうインドに着いてたんだね、あかり忘れてたよ」
朱里のこのだめ押しの言葉は、体だけでなく心までをも空虚にした。朱里は僕の地雷をことごとく踏む。地雷から地雷、またジャンプして地雷に着地。天才か? 天然か? 天然ならまだ良い。僕はしっかり朱里にインドに着く日にちと時間、旅程などをメールで連絡していた。もちろん電話でも伝えていたのだ。それなのに、僕がインドに着いてると知らなかったかのような口ぶりだった。僕の渾身の旅も、朱里に取っては簡単に忘れるようなトピックだったのだ。最初の付き合いの頃からもう何度朱里からこんな無関心な言葉を聞いただろうか。それは挙げれば切りがなかった。僕のことを認識しようとしない口ぶりに、いつだって傷ついている。今だって……。ゆり子だったら……。ゆり子だったら僕が連絡したことは決して忘れない。僕が寂しい想いをするなんてあり得なかった。そこまで意識を巡らせたあと、僕は都合良くゆり子の気立てを持ち出して朱里と比べてる自分に嫌気がした。そして今朱里と電話をしている。そこに意識を戻し、なんてこと無いという素振りで話しを続けた。
「そうだよ、メールに書いたよ?」
「あ、そうだ、そうだった!」
「次はガンジス川よね?」
おそらく朱里はメールを確認していてわざと言っていた。デートの約束をしておきながら、迎えに来た彼氏が家の前に来ているのに見ない振りをしておきながら、あとになって「変なやつ」と言えてしまう朱里だ。僕はどうしても朱里と接していると警戒してしまう。僕は朱里のことを信用していなかった。次はどんなことで傷つけられてしまうのだろうか。それでも……、それでも僕は朱里の呪縛からは逃れられなかった……。
「みなみさん、インドのサーキット知ってる ブッダ・インターナショナル・サーキットのこと?」
「ブッダ? 確か雑誌でスーパーバイクの高宮さんがレポートしてたよね?」
「そう、来月の半ばにもしかしたらそこで急遽テストがあるかもしれないの、うちのチームがインドの「IDM」というショップのパーツを使うことになって、挨拶がてらそこでテストしようっていうことになってるの。挨拶がてらって軽く言うけど、マシンや器材の輸送代だけで300万円くらいかかるらしいのよ。でもそのショップがすべて手配してくれるって。もうマシンは送ってあるのよ。インドって景気良いのかしら? でね、サーキットからニューデリーまで車で1時間くらいらしいの、デリーまで行ったらみなみさんに逢える?」
「へ?」
僕ははっとした。朱里に逢える? そんなこと夢にも思っていなかった。日本にいてもほとんど逢えなかったのに、インドで逢えるってどういうことだよ。本当に人生の仕組みってわからなくて面白い。それも朱里から逢いたいなんて初めて聞いたんじゃないか? そして本当に逢えたら……。僕はまた朱里の何も身につけていない身体を想像してしまった。
ついさっきの会話で傷ついたことなど、一瞬で吹き飛んだ。朱里との付き合いは、このパターンの繰り返しだった。パターン……。
「その頃はたぶんデリーにいる予定だよ! ちょうどその頃戻ると思うし」
「ほんと? あかり、みなみさんに逢いたい!」
「おれも、逢いたいよ!」
僕は嬉しさのあまり、急激に鼻を伸ばしはじめた。伸びた鼻先は象でも滑れるほどの大滑り台だ。熊でもライオンでもかかってこいってんだ! 僕は急激に息を吹き返した。朱里に対して「死に体」を演じていた僕のこのメンタル。電話すらまともに繋がらなかった朱里と、よりに寄ってこんな最果ての地のインドで逢える……ん? なんだそりゃーっ?! 僕は困惑し、そして興奮して喜んだ。僕は自分の体調の悪さを思い出したかのように、電話を耳に当てたまま列車のシートに横になった。しかし僕の表情がゆるんでいるのは鏡を見るまでもなかった。
ゆり子のことを都合良く思い出したり、ちょっと僕に意識が向いた途端、心の中を朱里一色にしたり。僕は意思が弱すぎるのか、いや単純に軽い男なんだ。
朱里と電話を切ったあと、さらに体調は悪化した。あとはひたすら毛布に包まってうずくまった。けれど朱里に逢えるかもしれないという現実が、今の僕にはどんな薬よりも強力だった。「かかってこいっ! 誰が?」僕は毛布に包まったまま浮かれた。だからといって、未憎悪の下痢が治まるわけではない。僕はお腹との親密なコミュニケーションをとりながら、なんとかガンジスの聖地バラナシ駅へ到着した。

つづく

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