小説「チェリーブロッサム」第29話

朱里以外誰も走っていないコースで、ただ1台高らかな排気音を響かせていたマシンは、一番スピードの出るS字コーナを右、左と華麗に素早く切り返した次の高速右コーナーに新入した直後、超ハイスピードで巡航していた朱里のマシンは許容範囲を超え、リアタイヤを大きく滑らせた。雨でも膝を接地させるくらい深くマシンをバンクできるレインタイヤだったが、そのグリップを失った瞬間、朱里は膝でマシンの体勢を立て直そうと粘りに粘った。朱里ほどのセンスがあっても、この異常なスピードとバンク角で超えたしまった許容範囲を元に戻すことはできなかった。その滑ったタイヤは、失っていた意識を取り戻したかのように、急激に路面に喰らい付いた。グリップの良いレインタイヤは、この雨のアスファルトでも更なる接地を呼び、大きなアクシデントへと導いた。一瞬で激しく路面に喰らい付いたリアタイヤは、その反動でサスペンションのスプリングとフレームのしなりががっちりと合わさり、マシンに恐ろしいほどの反力を発生させた。しっかりとハンドルを握っていた朱里だったが、何度もマシンを縦に揺らすその反力は、最後は恐ろしいほどのモーメントをマシンに発生させた。マシンにしがみつこうと必死に両膝でマシンのガソリンタンクを挟んだ朱里だったが、最後はその力には逆らえず、大きく身体をマシンの真上に浮かせると、ハンドルから指先が弾かれるようにいとも簡単に前方へと吹き飛ばされた。朱里は肩から激しく路面に叩き付けられてうずくまっていた。

慎ちゃんが「あっ!」と大きな声を上げたあと、僕も続けて「あっ!」と叫んだ。朱里に何が起きたのかを察知した。しかも頭から落ちたように見えた。僕は手に持っていた掃除用具を投げ捨てて、慌ててS字コーナーを目指した。朱里は、サーキット走行では誰もが恐れると言っても良い一番危険な転倒、ハイサイドを起こしていた。
500m程先でマシンは芝生の上で煙を上げながら止まっている。雨にぬれた芝生がエンジンに触れて水蒸気を発していた。フロントタイヤはまだ虚しい回転を続けている。そして転がっているマシンのかなり手前で、朱里がコース上にうずくまっていた。慎ちゃんは朱里のお父さんに声をかけて朱里の元に駆け寄った。
「よう、だいじょうかようー」
身の軽い慎ちゃんが先に着き、いつもの軽い感じで話しかけていた。レース経験が豊富な慎ちゃん。ライダーが全身を動かしていて、ヘルメットに損傷が無い場合はまず焦ったりはしない。その通り朱里は幸い頭はそれほど打たなかったようで、怪我は左肩だけのようだった。朱里は左の肩を苦しそうに抑えており、鎖骨を骨折したのは明らかなようだった。朱里のお父さんも慌ててはいなかった。自分自身何度このハイサイドの餌食になったかわからない。今の朱里に起こっているすべてを把握している。身体の痛み、転倒の恐怖、そして怪我がいつ治るのか。ライダーは転んだ瞬間にすべてを考え、最後はいつ頃復帰できるのか、その一点に思考は絞られていく。朱里はしきりに「お父さん、朱里次いつ走れる? 悔しい、悔しい」とヘルメットのシールドを開け、左肩を抑えながら大きな声で叫んでいた。僕はあたふたとし、ただ声もかけれずに見守ることしかできなかった。空を見ると雨はまだこれからが本降りなのだと言わんばかりに黒く広がっていた。そして僕は朱里の転倒に1人慌てていた。

朱里が救急車で病院に着くと、すぐにレーシングスーツはハサミで破られた。肩周辺の骨折は、到底自力でスーツを脱ぐことはできない。スーツは丈夫な本皮で出来ており、普通のハサミなどでは容易に切れるものではない。間接の隙間だったりの布地の部分にハサミを入れていく。ハサミを入れたとしても、スーツを脱ぐのは簡単なことではなかった。朱里は言葉にはしなかったが、呻きながらとても苦しんでいた。
診察台に乗せられた朱里がやっとの思いでスーツを脱ぐと、全身の体のラインにぴったりと装着されたインナースーツだけの姿になった。長い黒髪を左右に散らし、奇麗な身体のラインをしならせながら身悶えていた。その身体が身をしならせることで、よりくびれた腰は強調され、ほっそりと奇麗に伸びた手足はまるで筋肉なんて付いていないのでは、と思うほどに華奢だった。それなのにあんなにも軽やかにレーシングマシンをコントロールしているのかと思うと、僕は尊敬よりも真っ先に「欲」が湧く自分が嫌になり、叱咤した。この裸に近いような姿でマシンを乗りこなす朱里の姿を想像し「欲」を感じたのだ。こんなに苦しんでいる恋人を前にしながら。
そんなほっそりとした身体に反発するかのように不釣り合いな大きな胸は、息苦しそうにインナースーツの中にしまわれていた。僕はその美しい全身の流麗な肢体に見惚れていた。なぜこんなにも恋人が苦しんでいるのに、僕は欲が沸き上がっているのか。それはさらに一枚脱いだ先の朱里の身体のすべてを知っているからだった。知っているのに、僕はもういつからかその肌に触れられていない、その想いが僕の全身を欲で包んだ。朱里の頭からつま先までのすべてに何度も何度も触れたのだ。僕の全身の肌が、朱里の柔らかく極めの細かい肌の感覚を今でもありありと覚えていると叫んでいた。僕は朱里と裸で抱き合っている場面を心に浮かべながら、じりじりと水面の下に押し下げられるような息苦しさを感じていた。自分自身の欲と怪我で苦しむ恋人への憐憫との狭間で蠢いていた。
「みなみさん……」
「え、なに⁈」
僕は朱里に呼ばれて、すぐに口元まで近づいた。
「あかりは大丈夫よ、だからみなみさん帰って」
「え、でも……」
僕の心の中の小さな砂の山は、さらさらと崩れて形を失くした。
「見られたくないの、こんな姿……」
「でもなにか手伝うこと……」
「帰ってっ!」
僕は肩をびくっと怯ませて立ちすくんだ。朱里のお父さんが僕の目を見て小さくうなずいた。朱里はとてもプライドが高い。弱い自分を人に見せるのを何よりも嫌う、それも十分わかっていたつもりだった。けれど、僕の心はまた何かを失った。朱里が辛い時に僕のあふれる愛情を使う暇もなく、僕の出番はなくなってしまった。僕は診察室から駐輪場までの通路をのろのろと歩いているうちに、ずっと疼いていた欲は姿を変え始め、憎悪へと変わった。僕はその憎悪を、胸の中から恐ろしいほど沸き出させていた。こんな気持ちのままでいたら僕はどうなってしまうのか、考えると恐ろしかった。
駐輪場で自分のバイクを見つけ、気だるく股がったあとヘルメットだけを被り、黒い空を見た。まだ当分止みそうにないだろうという雨に嫌気がした。そして帰ろうと思いハンドルを握った瞬間、僕の何かが弾けた。
「朱里といるといつもこうだ! 僕は苦しい、苦しくてたまらないっ、朱里は僕のことなんて必要じゃないっ、なんでだ! 僕はこれほど朱里を必要としているのに、朱里が、 朱里が……」
ハンドルを握りながら何度も何度もバイクを小刻みに揺らし、小さな声でいつまでも怒りを叫んだ。
僕はそのままハンドルを握りながら上半身を伏せていた。しばらくすると少し気が落ち着いたのを感じたが、もう濡れてもいいと、そのまま雨具も着けずにバイクを走らせサーキットに戻った。戻った時ずぶぬれの僕を見つけて慎ちゃんが声をかけてきてくれたが返事もできず、僕はそのまま帰り支度を始めた。もう嫌だ何もかも嫌だ。僕は荷物だけを取り、ゲート前にエンジンをかけたままのバイクに再び股がり、来た方へバイクを勢い良く走らせた。山沿いのいくつものカーブを走り、交差点の赤信号で止まった。ふと我に返って自分の身体の感覚が蘇る。
「パンツまで濡れてるよ……」
と僕は赤信号に向かってつぶやいた。パンツまで濡らした冷たい身体への刺激は、少しだけ朱里のことを忘れさせてくれた。

つづく

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