小説「チェリーブロッサム」第28話

   * 朱里のプライドと、雨に濡らしたパンツ

「今日は雨だからお客さんは少ないな」
 手のひらで雨を受けながら空を見上げて、今日のサーキットの来客を予想した。通勤に使うヤマハ製のシグナス125のスクーターに、半身で跨がり鍵を差し込み、イグニッションをONにした。右手でフロントブレーキを握りながら同じ手で器用にセルスターターのスイッチを押すと一瞬でエンジンはかかり、少しだけアクセルを煽っていると、エンジンは安定したアイドリング状態になった。手を放して、そのままエンジンを温めながら僕は雨具を取り出し、上下しっかりと身に付けた。すぐに換装できるフルフェイスヘルメットのスモーク色のシールドを外し、雨でも視界が良好になるクリアイエロー素材のシールドを装着した。雨の日の靴は防水性で定評のあるゴアテックス素材でできたノースフェイスのトレッキングシューズ。足首の固定の無いローカットのシューズではあるが、登山に行くわけではないのでこれで十分だったし、足首が動きやすいのは逆に利点だった。踵も高くソウルの溝もしっかり掘り込んであり、砂利への追従性は素晴らしかった。山奥のサーキットの雨の日の仕事では防水機能と同じように重要な装備だ。
 以前雨の日に、デッキシューズのようなスニーカーでピットボックスの裏手の傾斜を登ろうとして、足を滑らせて太ももに枝を突き刺したことがあった。しかし大した枝でもなかったので、傷も絆創膏を貼るだけで済む程度だったが、オーナーはきちんと病院へ連れて行ってくれた。その時ピットにいた、知り合ってまだ間もない朱里が僕に駆け寄ってくれたのを思い出した。朱里は冷静な顔で「他は大丈夫?」と気遣いながらオーナーのワンボックスで一緒に付き添ってくれた。
 この時に僕の中で朱里に対しての恋心が生まれたのは確かだった。それは、振り返った時にそういえば。と思うくらいの小さな小さな芽だったが、それから急激に僕は朱里へと引き寄せられて、そして付き合いが始まった。そのあと、こっぴどく振られるのだが、朱里は目を見張るほどの美しさと、国内トップクラスのライディングセンスを見せつけるように再び僕の前に姿を現し、また繋がった。僕の朱里への気持ちは、以前よりもさらに深く溺れて苦しんでいた。

 勤務予定通りの時間にサーキットに付くと、朝一のシフトだった慎ちゃんがすでに清掃業務を行っていた。
「しんちゃん、ういーっす」
「ういー」
 僕と慎ちゃんはいつものように気だるく慣れた挨拶をした。僕らは同い年なのもあって、同じシフトの時にはよく話しをした。サーキットを走ればお互い同じくらいのレベルだったし、タイムも遅い方ではなかった。二人でよくジュースをかけてタイムアタックなんかをして競い合っていた。勝敗は12勝9敗で僕が勝ち越していた。
「今日はこれ誰もこないっしょ」
 雨がアスファルトに勢い良く落ちる様子を見て、慎ちゃんはラッキー、というニュアンスで言った。
「だよねー? ひとまずおれ、下のヘアピンの砂利見てくる、この雨じゃだいぶ溜まってるからねえ」
「ういー、しくよろー」
 サーキットで一番の高低差の低いヘアピンには、雨の日は大抵山から流れ出る水で泥が溜まる。これは雨の日の仕事では厄介な案件だった。寒さも忘れるくらい何度もスコップを振るい泥を崖の下に捨て、水道であらかた洗い流す。その頃にはすっかり体から湯気も出るほどに温まっている。僕は息を切らしながら無線で「OK」と言ってピットへ戻った。 ピット前で慎ちゃんが手を振って僕を呼んでいた。慎ちゃんが指差す方には朱里の家のワンボックスが止まっていた。朱里はすでにマシンを下ろしていて、走行の準備をしていた。「朱里だ!」僕は心が弾んだ。まさか雨の日にこんな場所で朱里に逢えるなんて。僕は思わず笑顔になった。お父さんも隣にいて、僕は小走りで駆け寄った。しかしピットボックスは重苦しい雰囲気だった。
「よおみなみちゃん!」
「どうしたんすか? 平日のこんな雨の日に来るなんて?」
「こいつさ、先週の全日本で千香がいきなり全日本で勝っただろ? 結果見た?」
「え、ええ……でも朱里も表彰台に立ったんだから素晴らしいですよ」
 僕は苦し紛れのリアクションをした。朱里はそのレースで立派に3位表彰台を獲得した。しかしその千香という朱里の長年の後輩である女の子が、今シーズンから全日本選手権に昇格して来ていて、なんと参戦初年で並みいる男性ライダーの手練達を退け、朱里より先に初優勝を飾ったのだ。レース界では事件になっていた。その話題の影になってしまった朱里の存在は、今では昔話題の女の子ライダー。その程度の関心度に成り下がっていた。
「朱里の奴千香に負けて、しかも優勝までかっさらわれて、ずっとぐちぐち言ってんだよ、『あんな膝も擦れなかった千香に負けるなんてあたしもうおしまいよ!』ってさ、もう大変だったよ」
 
家で涙を流しながらお父さんに詰め寄ったと説明してくれた。朱里は全日本選手権でもすでにトップグループの常連となっている。そんな朱里に雨の日のミニバイクコースで得られる物などあるはずはなかった。しかし朱里は居ても立ってもいられなかったのだろう。筑波サーキットの練習走行枠は常にパンク状態で満員だ。とにかく走って発散したいんだろう、それほど朱里は先週のレースでプライドをずたずたにされたということだ。朱里は無言でマシンに燃料を入れていた。
「みなみさん、今日ラップマシンこの雨じゃ動かないでしょ? あかりのタイム計ってくれる? そしてどこが悪いか教えてほしいの。みなみさん見るの得意でしょ? 走るのは得意じゃなくても」
 朱里はそう言って頼んで来た。僕はその言葉にカチンときた。自分は全日本でもトップクラスのライダーで、あなたは平凡なミニバイクレーサーでしょ。と見下されてる気がした。確かに僕のベストタイムは、朱里がここのサーキットで出したほぼコースレコードのタイムからは0.5秒程遅かった。しかし隠したくなるような酷いタイムではなかったし、むしろ朱里クラスのタイムから0.5秒落ちだったら威張っても良いくらいのタイムだった。

朱里はとにかくとても勝気で、相手の気持ちを理解するようなタイプではなかった。しかしその性格のおかげで朱里は今の地位まで上り詰めた。それも確かだろう。僕は悔しいけど朱里に逢えたことが嬉しくて、朱里のぎざぎざしたもので傷つく僕のやわな部分は、今は心の奥にしまっておいた。すると朱里への強烈な赤黒い恋心が胸の奥から顔を出して来た。都合の悪い言葉は無視して頼まれたことを喜んだ。
「下の砂利は取ったけど、最初は気をつけて、それと雨の日はできるだけコーナーの入り口ではインについて。そしてできるだけマシン立てたままくるっと曲げてアクセルを開けられるだけ開ける。いい?」
 と、僕は熱くなっている朱里にセオリー的なアドバイスをした。
「そんなの分かってるわ!」
 確かにそうだった。朱里は押しも押されぬ日本屈指のトップライダーだった。朱里はこの雨の中、全日本選手権の本番で使うレーシングスーツを着ていた。本気だ。僕はそう感じた。スーツには沢山のスポンサーロゴが貼られており、胸には大きくチーム名のロゴが。そしてお尻の当たりにアルファベットで大きく「AKARI」とプリントされていた。
ピンクとイエローで奇麗にデザインされた、オリジナルペイントのSHOEIの最新型のヘルメットを被り、視界も悪い中表情をも見えないくらいの濃度の濃いスモークシールドを「カシャッ」と下しコースに出て行った。マシンとコースは違えど、あかりは今、先週の全日本選手権の続きをしてるんだ。朱里の全身からプロフェッショナルな気迫がただよっていた。

朱里は後ろも振り返らずにコースインし、いきなりアクセルをフルスロットルにすると、思い切りの良い半クラッチを当てた意味の高回転の排気音がコースに響き渡った。タイヤを電気で直に温めるタイヤウオーマーを使っているとはいえ、無謀なペースだった。しかしそれで転ばないのが朱里の天性の才能だった。雨の日の一周目とは思えないようなスピードでコーナーを立ち上がり、エンジンを目一杯回しているだろう排気音を響かせて朱里はホームストレートに姿を現した。
「やってんねー。朱里ちゃん、大丈夫かあれ?」
 慎ちゃんが呆れて聞いて来た。
「うん、あのペース、気持ちはわかるけど」
 僕と慎ちゃんは目を合わせて、二人で朱里に向かって両手を上から下に動かし、ペースダウンのサインを出した。そんな僕らのサインを無視して、朱里は左手で中指を立てて僕らの前を通り過ぎ、ますますペースを上げた。ストップウオッチを見て僕は「うわ!」と思わず声を上げた。朱里の今通過したタイムが55秒3だった。ビギナークラスのライダーだったらドライコンディションでも出せないようなタイム。いくらレインタイヤを履いているからといっても、それは無謀なスピードだった。そして案の定朱里はそのタイムを刻んだあとの周のS字で転倒した。そしてちょっとまずい転び方だった。

つづく

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