小説「チェリーブロッサム」第27話

「そうだ、ちょっと聞いてよ、この前会社の友達がね、わたしが元気が無いからって言って、行きたくもない飲み会に無理矢理連れて行かれたの。高山くん、多香美って覚えてる? 金属加工の2課の同期の子なんだけど」
ゆり子は明るく話していたが、僕は「元気が無い」のワードに心を重くした……。
「覚えてるよ。あのちょっと太目なのに、やたら速く動くうるさい子でしょ?」
僕はその心の重たさを隠したくて、ふざけた言葉でごまかした。そして多香美の動きは事実だった。以前多香美と会議の準備をしていると、信じられない大きな声で僕に「その書類取って!」と叫んできた。慌てて書類を渡すと、その体の脂肪の量からは想像もつかないほどのものすごい速さで、右に左にクイックにテーブルに書類を置いていく様は、とてもデ○の動きじゃなかった。最後は意味の分からない「おうっ!」というかけ声まで上げていた。僕は違う意味でその動きに釘付けになった記憶が蘇っていた。動ける○ブ。の称号がぴったりな多香美ちゃんだったが。一枚だけオブラートに包んでジェントルに伝えた。
「あはは、ひどいこと言わないのよ」
ゆり子は僕のジェントルには気がつかなかったようだ。
「それでね、多香美が連れて行ってくれたその飲み会に、ある男の子が来ててね、わたしと同い年なんだけど、いきなり『君は何がすき?』って詰め寄るの。びっくりして、その子が何がって言うから『私はバイクのレースを見るのが好きよ』って言ったの。そうしたら『違うそうじゃなくて、わかんないかなー、誰が好きなのかってこと!』なんて言うのよ、ほんとに失礼でしょー? 自分で何がって聞いておいて誰が、とか言ってさ。ちょっと苦手なタイプよ。前にばっかりでてくるタイプ!」
「それで、なんて言ったの?」
僕は少しだけよくわからない不安な気持ちになった。それは自分でも気がつかない程度のその彼へのヤキモチだった。
「もちろん高山くんって言ったわ、あ、誤解しないでね、わたしがただ想っているだけだからね。高山くんは気にしないでいいのよ」
「あ、う、うん……」
もちろん僕は思いきり気にした。そして良い気分になる自分もいる。けれど……。
「そもそも多香美なのよ」
「え、なにが?」
「多香美がね、その男の子にわたしのこと話したみたいなの、『ちょっと元気づけたい子がいるから男の子揃えてよ』なんてさ。多香美がなんて言ったかまでは聞かなかったけど、その彼すごい前のめりでわたしに聞いてきたのよ。でも、片思いです。って言ってやったわ。あ、言ってやったって何よね。ははは」
なんて答えていい分からずに、繕うような相づちを打つのが精一杯だった。しかしもうすでにゆり子は僕の朱里への気持ちは気にしていないように思えた。

インドの初めての夜はゆり子との安心で楽しい時間だった。最後の話しが気になってしばらく頭の上に浮かんでいたが、しばらくすると波が引くように海原の向こうに消えていき、また次の波が押し寄せて来た。朱里だった。朱里への吸引力は、まだまだ収まるなんて思えなかった。僕は苦しかった。こんなに朱里のことが好きなのに、朱里は僕のことを僕が思ってほしいようには見てくれない。僕は朱里の声が聞きたくて堪らなくなり、思い切って電話をかけた。しかしコール音が虚しく鳴るだけだった。僕は12度目のコール音を聞いたあと一度電話を切り、ふた呼吸ほどおいてからまた電話をかけた。今度は5度目のコールであきらめた。電話を切ったあとに、どこにぶつけていいのかわからない怒りに襲われて、手に持ったままの携帯電話を壁に投げつけようかと振りかぶったが、思い直して枕にそっと投げつけた。ここで電話が壊れたら朱里の声が聞けない。僕の朱里への情けない依存は深まるばかりだった。僕はインドまで来て何をしているんだと悲しくなった。しかしそんな自分を情けなく思ってもなお、朱里への想いが募った。

明くる朝、窓の光で目が覚めてみると、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなったが、壁紙の模様をみたとたん、ここはインドだ! と思い出した。すると突然得体のしれない興奮がやってきて、居ても立ってもいられなくなり、着替えもせずにホテルの建物を遊歩した。昨日の夜、朱里が電話に出なかった憂鬱さは甚大だったが、ゆり子との会話はそれを補う以上のエネルギーを僕にくれた。ゆり子と話ができなかったらこんなに興奮するなんてできなかったかもしれない。おかげで初めてのインドの朝を軽い足取りで動き回れた。
そうだ僕は旅に来たんだ! ここはインドだぞ! 面白いようにわくわくした気持ちが沸き上がった。僕は後ろに手を組み、「これが旅ねえ、これが旅なのねえ」とくねくねと闊歩しながらニヤついた。

約束の時間になり、僕はホテルを出た。ホテルの前の大きな道路を渡った先にある、黄色い看板のオートバイ屋さんの前でクマールさんと待ち合わせをしていた。僕は先に着いていて、バイク屋さんに並ぶオートバイをじろじろと見つめていた。しばらくすると遠くから元気そうなクマールさんが手を大きく振って現れた。
「おはようございます。待ちましたか? 朝の気分はどうですか? 石の上にも三年」
今朝は昨日にも増して流暢な日本語に聞こえた。そして挨拶の最後には、なぜか著名な短歌が歌われていた。なにかのアピールなのだろうか。こういうのは嫌いじゃなかった。少しずつクマールさんのおもしろい人柄が見えてきた。サービス精神旺盛なクマールさん、本領発揮というところだろうか。

今朝は徒歩でデリーの街を案内してくれるということで、さっそくクマールさんの先導で街を練り歩いた。まだ朝も早かったが、すでに気温は30度を優に超していたが、まだ空気もからっとしていて過ごしやすかった。朝のインドの空はどこまでも青く濃く澄んで広がっていて、僕の心までも澄むようだった。ここはあのインド。正真正銘のインド。いくつもの雑誌や写真集で見たインド。どこを見ても上を見ても下を見ても、思わずクネっと後ろを振り向いて笑顔を振りまいたところで、それは嘘偽りのない純度100%のmade in INDIA だった。感動した、ただただ感動した。初日は緊張していたことと、いきなりバッグを移動されて焦り、自分の保身に精一杯で周りを見る余裕はなかった。しかしインドの地で一晩寝て起きてみると、不思議とこの国に気持ちが馴染んでいることを感じた。僕はとても気分が良かった。街に人が歩いているだけで、子供が歩いているだけで、小さな店を見て道を見て、何を見てもジーンとした。しかしまだ、デリーの街のたった一部を見ただけだ。この旅のほんの一部を見ただけだ。今からこれだけ感動してしまったら、この先僕の心は保つのだろうか。本気で心配してしまった。
クマールさんを見ると、陽気に歌を歌っていた。どこかで聞いたことのありそうなインド独特のメロディーで、この澄んだ青い空にとてもよく似合っていて心地よかったから、僕は何も話しかけず、クマールさんの口ずさみに耳を傾けた。

つづく

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