小説「チェリーブロッサム」第26話

* 戻れない

「もしもし、ゆり子?」
「高山くん、よね? えー! 今どこ⁈ なんで⁈」
ゆり子は着信番号で国際電話と分かり、慌てて僕に聞いた。ゆり子の声を聞いた途端、どこまでも平和な日向ぼっこが脳裏に浮かんだ。それはまるでじんわりとした輻射熱のような暖かさで、やさしく僕を包んでくれた。
「今デリーだよ。ぜんぜん連絡できなくてごめんね」
と僕はちょっと自信ありげに現在地を伝えた。そのまま携帯電話を持ったままベッドの脇まで歩き、窓のカーテンを開けた。そこには街頭の明かりや街並を歩く人々が小さく見えた。日本でも馴染みのあるアスファルトの道路、馴染みのある四角いビル。しかしどれも日本で見る物とは違う造形をしていて、もちろん日本では味わえない異質な様相で構成されていた。その光景は、正真正銘の喧噪が静まったあとのインドの夜だった。その光景に胸を高鳴らせ、そしてゆり子と繋がった胸の高鳴りに耳を澄ませ目をつぶった。

ゆり子から、「インド行きが決まったら教えてね」と何度も言われていた。僕は朱里のことを想うばかりに、ゆり子が願う連絡を安く取り扱っていたことに気がついた。しかしゆり子の声を聞いた途端、僕は電話越しのゆり子の姿をイメージして顔をにんまりとさせた。
「そんなのいいのよ、高山くんが無事だったら。デリーってことはインドよね。本当にインドにいるなんてちょっと感動よ。それにやっぱりツアーじゃなくて個人旅行でしょ? すごいよー!」
「ありがとう、自分でも自分の行動にちょっとびっくりしてるけどね。へへ。今日デリーに着いて、今宿でのんびりとしてるところだよ」
「えー、宿⁈ すごい、ほんとにそこはインドなのね」
ゆり子はとても明るい声でそう言うと、何かに思考を巡らせているような気配が伝わってきた。
「どうインドは? 暑い? 人のるつぼ? また何か産まれちゃってる? ははは」
上機嫌のゆり子節だった。僕は思い返せば久しぶりの「産まれる?」だった。とても懐かしくて胸が熱くなり涙腺が震えた。僕はゆり子に会話を被せた。
「もうぱかぱか産まれちゃってるよ、どうしようこれ止まらないよ、ははは。一杯産まれてるからメールで送ろうか?」
「あはは、送って送って、何が産まれちゃってるの? もうおかしい。ははは。ねえ、添付して、メールに添付して送ってよ。こっちでプリントして飾るわそれ、ははは、もうおかしくてお腹痛い」
ゆり子はとても楽しそうだった。あんな一方的な別れ方をされていても、こうして楽しく話をしてくれる。ゆり子のその器の大きさがとても眩しかった。そしてまた、そんなゆり子と自分とを比べ、自分を卑下した。悪い癖だ。

しかし僕は1人でインドへやって来た。それは大人の男にしかできない行動だ。僕は成長した! 僕は大人の男になったのだ! とインド滞在たった1日目の男は、鼻を大きく膨らませた。自称、大人の男の鼻の穴からは、不健全で歪んだ気持ちは多少はまっすぐになったのかもしれない、というような息が漏れた。
少しだけ大人になったかもしれない僕は、このゆり子からの会話を俯瞰から観察できていた。この「ゆり子との繋がり」にいれば僕は安全だ。それは肉体としての安全ではなく心の、いや僕の魂の安全だった。この感覚がある限り寂しさはもう訪れない、それ以上に寂しいだとか、寂しくないだとか、そんな概念すら吹き飛びそうなくらい、僕は心の底から安心してリラックスしていた。しかしゆり子に今まで犯した「罪」を考えると、そんな都合のいいことを考えるだけで罪悪感が芽生えた。「ゆり子と話してると安心する」と言えばきっと喜んでくれるのは明らかだったが、しかしその想いを飲み込んだ。それは、どう考えてもあまりに勝手すぎた……。

ゆり子のシャレの利いた優しく楽しい会話に、携帯電話を持ちながら僕は笑顔になっていた。嬉しい、なんだろうこの感覚。僕はゆり子との会話を楽しんだ。これからの旅程など教をえてほしいと言うので、事細かく教えてこう言った。
「気楽な個人旅行だからあくまでも予定通り行かないと思うけどさ」
「オッケー、もちろんいいよ、把握してるだけで安心だし、こっちでもパソコンで辿ってみる。一緒に旅行してるみたいじゃない? また気が向いたら電話してね」
ゆり子の僕に対しての「安心」という言葉に涙腺が反応し、思わず鼻をすすった。
「いいの⁈ 通話料金定額で契約したから、またこっちから適当にかけるよ!」
あ、言わなく良いことまで言ってしまった……。ゆり子に癒されて浮かれた僕の節穴は、マッコウクジラすら通しかねないバカでかさだった。
国際電話の通話料金定額は一ヶ月でかなりの金額のする契約だ。朱里とはそれだけのお金をかけてでも旅行中話しがしたいという愛情の証に聞こえる言葉だった。僕はゆり子にそんなお金をかけたことなどはなかった……。そんな簡単な気遣いができない、朱里への僕の想いが簡単に伝わってしまったはずだ。ゆり子の洞察力の高さにいつも気がつかない自分に嫌気が刺したし、朱里への浮かれ具合がばれてしまうのはとても気まずかった……。
「そっか……」
やはりゆり子は気がついたようだった。
「彼女は、元気……? まさか一緒に来てるの? 来てないわよね、来てたらそんな高いプランにしないわよね? ふふふ」
彼女は僕の朱里への想いに気がついても、何も気にしない様子で余裕だった。僕はゆり子へも電話をするかもしれない。そう考えていた。しかしそれは可能性も少ない脇役な考えで、自分勝手すぎてとても伝えられなかった。しかしゆり子がそんなことぐらいで僕を責めないのは分かりきっていた。しかし、
「そそそ、そんなことないよ、ひ、一人だよ、た、旅は1人でするもの、だ、だから! だからー!」
僕は自分でもバカかと思うくらい慌ててしまった。言葉の最後に至っては「だから」を二回言ってしまうほど、そんなに露骨にさらけ出してどうする? というくらい心の隅々をお見せしてしまった。
「そんなに慌てないでよ、ふふふ。いいのよ高山くんが誰と一緒でも。元気で幸せだったらわたしは嬉しいわ」
「い、いっしょじゃ、な、ないってばっ!」
今、目の前に豆腐の角でもあれば、頭の一つでもぶつけてやりたい心境だった。ここまで僕のことを……否、きっとゆり子は好きになった人ならば、誰にだってすべての気持ちの扉を開くだろう。それがたとえ酷い仕打ちを受けた相手であったとしても。
「でも彼女とうまくいってるみたいね、悩みでもあれば聞きたいくらいだったけど、そんな必要もなさそうね。ふふ」
僕は黙ってしまった。そしてそんな言葉をかけてくれるゆり子と話をしていると、だんだん気持ちの本音が僕の制御を突き破った。
「うまくいってるかわからないよ、向こうはほんとに勝手だし、いつも振り回されてるよ」
「そうなの? そうか……やっぱりね。わたしなんか嫌な予感がしていたの……。その人の話を聞いたとき、高山くんにはなんか合わない気がしたの、あ、ごめんね……」
「いいよ、全然。うん、それはそうかもしれないよ、本当にすごく疲れるよ……」
「高山くん」
「ん、なに?」
「前にも言ったけど、今なら、今ならまだ、戻れるよ……?」
「へ?」
不意打ちのようなゆり子の再びの告白に一瞬ぐらっとして、僕は間抜けなリアクションをとってしまった。こんな僕のことをここまで心配してくれて、しかも何度も戻って来ても良いと言ってくれている。ゆり子は僕のことを守ってくれているんだ。しかし僕の本音は、煮え切れない「間」を作っていた。
その「間」だけでゆり子は僕の心境を全てを察知したようだった。そしてそのことはもうそれ以上は聞かずに、明るく話題を戻してくれた。

「ふふふ、通話料定額なんでしょ? もっとインドの話聞かせてよ」
ゆり子のとてつもない安心に包まれて気持ちがほぐれたのか、僕は半泣きの半嗚咽になりながらも、ゆり子に空港の有象無象のことや、灼熱のガラス扉事件シャーミー&アジェイの茶番や、クラクションの無駄打ち話、などをノリノリで話した。
「もう、あはは、何言ってるかわからないから、インド人意味がわからない、ははは、高山くんもおかしいよー、あー、お腹いたい、腹筋割れるじゃないのよ、もうー」
「でさー」
「いやいや、もうやめて、言わないでお腹痛い、あははは」
「な、なにも言ってないから! あははは」
ゆり子は僕の涙声を受け止めながら、初日のドタバタ劇に終始笑いっぱなしだった。結局2時間も話をしてしまい、僕らの腹筋はよじれによじれた。あらためて自分で話してみても、ずいぶんな面白エピソードだった。
そしてゆり子が話してくれた近況では、どうやらヤマハレーシングチームへの配属の話も出てきているようだった。エリートとしての道を歩むゆり子のことがまた眩しくて、少しだけ胸がちくりとした。旅で少しは大人になったと思った矢先なのに、僕はまた自分を卑下させていた。世話の焼ける男だった。
そして最後にゆり子がこんな話をした。

つづく

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