小説「チェリーブロッサム」第16話

10代の終わりかけに生まれて初めてできた彼女……。僕は気持ちのすべてを朱里へと注ぎ込んでいた。僕は毎日だって逢ったり話したりしたいと願っていたが、朱里はどうなんだろう。きっと逢いたい気持ちなんてないんじゃないだろうか。逢いたいのは僕だけか。僕だけだなあ……。そんなしょぼくれた想いばかりが頭に浮かんでは膨らんでゆき、しばらく飛んで行くと「パン、パン」と弾けた。足下にはそのしょぼくれて割れたゴミだけが無数に散乱していた。
携帯電話も普及したこの時代に、僕も朱里も自分の電話は持ち合わせてはいなかった。なので通信網は「固定電話」それ一択だった。初めて電話をした時などは、いくら朱里のお父さんが顔なじみの存在とはいえ、「高山ともうします、朱里さんはいらっしゃいますか」こんな言葉を言うべきなのだろう。電話でそれを言うのはあまりに高いハードルに思えた。しかし電話にでた朱里のお父さんは、こちらが「もしもし、」と言っただけで勝手に喋り出してくれた。
「ようみなみちゃん、元気してる? 朱里なら居ないぞ……。うそうそ、ははは、ほんとはいるけど、ちょっとにしてよな、あいつ今夜から筑波だから」
そんな反応だったりして救われた。それに対して僕は、
「は、はい……」
と言うしかなかった。

朱里とはもう2週間以上、何も話しもできないまま時間が過ぎていた。声が聞きたくてたまらなくて、電話をしようと受話器を持ったが、朱里が迷惑そうに電話に出るとしか思えなくて恐ろしかった。それでも話しがしたいという欲求がその恐ろしさに打ち勝ち、僕は朱里の家の番号を押した。
「あ、みなみさん⁈」
直接電話に出た朱里はとても嬉しそうだった。素っ気なく出るとばかり決めつけていた僕は、良い意味で期待を裏切ってくれた朱里の明るいトーンに、嬉し涙さえ出そうだった。しかし、そもそもなぜ僕はこんなにも緊張してるんだ? こんなにびくびくしながらも、激しく朱里の愛情を求めている自分に疲れさえ見えていた。けれど楽しそうな朱里と話すことで、そのすべてが吹き飛んだ。朱里へのネガティブな感情は、この電話一本で見事にリセットされた。
久しぶりの朱里との楽しい会話に夢中になった。そして会話の流れで、朱里の期末テストが終わったすぐの日曜日に、一日遊ぶ約束をすることができた。そんな約束ができるなんて、電話をする前の僕には想像すらしていなかった。僕は電話を切ったあと、何度もでんぐり返しをしては喜んだ。約束の日までの僕は、歩いていても足音がしないくらい地面から浮いて過ごした。
待ちに待った約束の日、僕がサーキットから一日だけ軽トラックを借りて、伊豆の下田の海までドライブに行こうということになっていた。朱里はお弁当を作ると張り切っていて、僕はまたあらためて浮かれ直した。すでに僕の頭の中では、きらきらと光る夕日をバックに朱里と波打ち際を走っていた。「まてよー」「つかまえてみてー」「あはははー」ともちろんそれはスローモーションで再生された。そして僕の頭の中の車庫に佇む最新型不安マシンは、「今回はどうやら出番はないようだな」そう言って僕は不安マシンのキーを引き出しにしまいながらこう声をかけた。「おい、もう出てくんなよ」
朱里の期末テストも無事に終わり、成績は進学校ながらも及第点を楽々クリアし、トップクラスと言っても良いほどだったようだ。朱里のバイクを操る感性は、きっと鋭い思考から来てるのだろう。バイクのレースは体力がないと何もできないが、頭が良くないとトップクラスのタイムは到底出せない競技だった。マシンを速く走らせる為のセットアップは、吸排気のバランスに始まり、サスペンションの調整でタイヤをいかに路面に押し付けるか。まるでパズルのように難解だったが、それでも一貫したルールというものはあった。そのルールを知れるかどうかはライデイングの要である「体幹」も大事だったが、やはり思考の感度が何より重要なのは、経験してみないとわからないことだった。そして朱里の頭の回転の良さはずば抜けていた。それはずる賢いとも言っていいほどだった。

朱里との約束の日、僕は1時間半をかけて、約束の6時半までに待ち合わせの場所に着いた。電話で聞いた待ち合わせ場所は、自動販売機が何台も並ぶ昔ながらの商店だった。その前の大きな道路の前に僕は車を止めた。時間は6時10分。完璧だった。練りに練ったナビルートは、まだ夜明けが始まったばかりの朝もやがかかる約束の時間に、待ち合わせ場所まで僕の車を運んでくれた。僕は朱里がまだ来ていなくてよかったと安心した。きっと張り切っていたから、先に待たしてしまったら悪いなと思いながら、少し急ぐように車を走らせていたのだ。まだ時間は少しある、僕はホッとし、目の前の自動販売機で、暖かいペットボトルのミルクティを買ってから車に戻り蓋を開けた。
しかし朱里は約束の時間を過ぎてもやってこなかった。車の中央にあるデジタル時計には6時38分と記されていた。車を降りて朱里の家への路地を見ると、遠くに見渡せる先にあるだろう朱里の家の付近からは、誰も出てくるような気配はなかった。
「あと5分出てこなかったら迎えに行こう」
そして5分が経った……。
「……あと3分出てこなかったら迎えに行こう」
僕はこんな現実を全く予想すらしていなかった。約束の時間には、僕は朱里とキスのひとつでもしているだろう。そんなことを当たり前に想像していたのだ。完全に浮かれた妄想に取り憑かれていた僕は、あきらめるなんて選択はもちろんなく、ただただ何度も何度も時間を延長した。
約束したのだから、きっともう来るはず、朱里もあんなに張り切って楽しみにしていたはずのこの日の約束、慌てて走りながら、恋人である僕の元にやって来るはずだ。そんな光景が見たくて、「あと少し」を繰り返していた。しかし時計は7時30分を過ぎた。僕の理想はしぶとかった。執念と言ってもいいだろう。しかし朱里の姿はいつまでたっても目の前に飛び込んでは来ることはなかった。キスをするどころか、逢えるのかさえわからい……。
僕はこれはおかしい、何か重大なトラブルがあったのだ。家の玄関の段差でつまずいて大けがをしているのでは。僕の妄想はたがが外れてばらばらになり、自分が起こしそうなトラブルを当てはめていた。朱里はそんなドジではなかった。人を振り回す性分ではあっても、朱里が望んだ約束を忘れたり遅刻などする人間ではなかった。
外に降りて、車が歩道に寄っているかを確認し、鍵をかけて朱里の家に向かった。こんな朝早くにチャイムを押すわけにはいかない、携帯もない、公衆電話もない、あってもとてもかける勇気もない……。僕はそんなないない尽くしを片っ端から捕まえて、八つ当たりのようにゴミ箱に投げつけた。
住所を見るとどうやらここが家のようだ。車庫には朱里のレース活動での要となる、車庫ぎりぎりのサイズのワンボックスカーが押し込まれていた。それほど大きくない庭の小さな一軒家に明かりはついていない。今まさに玄関を開けようとしているのか、僕は家のフェンスの前でふらふらと体を動かし、中の様子を怪しまれないように探った。しかしそれは十分に怪しかった。
時計は8時をすぎていた。僕は電話をする勇気もなく、あきらめてとぼとぼと家に向かって車を走らせた。帰りは渋滞に捕まり、2時間30分かかった。この日の僕の待ち遠しさは、未だかつて無いほどで、前の日の夜は興奮してなかなか眠れなく、幾多の羊が柵を超えて行った。朱里はこの日、家には嘘をついて遅くまで遊ぶと言っていた。僕はまた朱里の肌の感触を味わえる。そのことで身悶えて、もぞもぞとしたくらいだった。僕は健全な若者だ。そう言わんばかりに。
しかしいざ蓋を開けてみれば、僕は1時間30分かけて迎えに行き、さらに1時間30分待ち、朱里の家の前をうろつき、最後は2時間30分かけて家に帰って来たのだ。それは誰がどう見てもドライブだった。しかしこんな寂しいドライブはもう二度と走りたくはなかった。僕はこんなとき泣けたら楽だと思ったが、なにも涙は出てはこなかった。
僕は部屋に戻りベッドに寝転んでみても、やはり電話をする勇気もなくて、上着も脱がないまま布団を被った。こんな絶望感もう嫌だ、と呟くと、僕はすぐに眠りに落ちた。次に起きたのは真夜中の2時だった。起きてみると再び胸が押しつぶされそうに苦しかった。
母はもうすっかり寝静まっていたが、電話があったのか聞きたくて起こそうかとも考えたけれど、そんなことはもうしなかった。する気力もなかった。電話がなかったと言う言葉を、今の僕には聞く勇気はなかった。しかし聞かなくても、悶々と過ごす時間が僕を待っていた。それは僕をまた絶望へと突き落とした。
僕は台所に行き冷蔵庫を開け、バドワイザーの缶が2缶並んでいるのが見えた。母のビールだったが僕は躊躇せずに部屋に持ち帰り、起こすと元気な音がするプルタブを戻し、口をつけた。生まれて初めて飲んだ19歳のビールはとても苦かった。 僕は自棄気味に2本とも飲み干すと、また孤独な眠りに落ちていった。

つづく

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