小説「チェリーブロッサム」第12話

* 捨てる

今でも手元にはその「フライト」の9月号があり、今日も部屋ではその雑誌の話題で盛り上がった。たかちゃんは僕の鹿とインディアンの大ぼけを思い返しては大笑いをしていて、ゆり子は「なに、なに?」と目を輝かせてそのエピソードを聞こうとしたが、僕は床に転がってばたばたと揺れ、船に釣り上げられた「マグロ」の物まねをしてかく乱させた。大成功だった。しかし僕がトイレに行っている間にすべてがばれていたようだった。僕は立ったまま気持ちの悪い得意の白目で棒立ちになり、知らんぷりでごまかした。本気で恥ずかしかったのだ。
たかちゃんは来年彼女と2度目のインド旅行を目論んでいた。たかちゃんは肘を張り、胸の前で手を合わせながら首をかくかくと動かし、僕らの目の前できゃっきゃと彼女と騒いでいた。
たかちゃんの彼女はりえちゃんと言って、小柄でほっそりとしていて、一重の切れ長の目の中の瞳はとても澄んでいて吸い込まれそうで、たまに目が合うとどきっとした。髪が驚くほどつるんと奇麗でまっすぐなロングヘアーだった。たかちゃんはりえちゃんのことを愛着を込めて「キューちゃん」と呼んでいた。あまりにも髪のキューティクルが奇麗だったからだ。しかしりえちゃんはそう呼ばれることが嫌いだったみたいで、いつものようにそれ本気でしょ? と思うくらい、たかちゃんの胸の辺りをグーで正拳突きをしていた。りえちゃんは空手初段だったらしい。たかちゃんはその度にわりとリアルに「ぐぇ」と小さいうめきを上げるのだ。僕はそのやり取りがとても好きで、いつもけらけらと笑った。
ゆり子とりえちゃんは同い年ということもあって、彼女達は僕ら抜きで会うこともあった。どんな会話がやりとりされているかなんて、恐ろしくてとても聞けない。僕の不健全さハプニングは筒抜けだっただろう。女の世間話にルールは無用だ!
たかちゃんと彼女は、今では二人で毎週のようにヨガの教室へ通っていると言った。僕はヨガと言えば頭にターバンを巻いて無茶苦茶なポーズを取る修行者たち。程度の知識しかなかった。「ヨガって色んな解釈が世界中にあると思うけど、おれが思うヨガって自分自身の観察なんだよ」とたかちゃんは言っていたが、それとあのポーズはどう関係があるんだろう……。と僕にはあまりピンとは来なかったが、自分自身の観察。という言葉は何か自分の「未来」を感じた。

インドで世界的に有名な川と言えばもちろんガンジス川だろう。そのガンジス川にはガートという階段が水際に沿って建てられていて、名前の付いたガートが84もあるという。ヒンドゥー教徒の人々はその階段から川に入り沐浴をし、ガンジスに祈りを捧げる。そこは信仰の場でもあり生活の場でもある。そのガートの中心に位置するダシャーシュワメード・ガートは巡礼者や観光客でごったがえすメッカとなっている。その他有名なのが火葬場のあるマニカルニカー・ガートだろう。ここでは沢山の薪が積まれ、宗教上の火葬が行われている。ヒンドゥー教徒では輪廻天性をする度に大きな苦しみを味わうと言われており、それに耐えなければならない。しかしバラナシのガンジス川で荼毘に付されるということは、その苦しさの輪廻から解脱できるのだと言われていて、そのために毎日のように多くの信者の遺体がインド全土から運ばれてくる。
「フライト」には、大きな写真と共にガンジスにまつわるそんな記事が載っていた。僕はページを開く度に、食い入るようにその記事を読んだ。ガンジスへの想いは、僕の中の何かを川の流れのように緩やかに確実に流し始めた。同時になぜだか懐かしい気持ちになり、静かに興奮した。
「たかちゃん、ガンガーってすごいな」
ヒンディー語でガンジスのことをガンガーと呼ぶ。たかちゃんがいつからかそう呼ぶようになり、僕も合わせてそう呼ぶようになっていた。
「でしょ? 実際あの場所に立ったらもう何も考えられないよ。立った瞬間自分がインド人だ。って錯覚するよ。ガンがーのガートに座ると、ただただ川の流れの小さな音に耳を澄ませるのが精一杯だったよ」
たかちゃんは一度りえちゃんとインドを旅している。とても心が満たされる素晴らしいた旅だったようだ。いつもインドの話しをする時、目を瞑ってロマンティックに話してくれた。話すとしばらく無口になって何か考えていたようだ。よほどインドが心に染みたのだ。それはとても羨ましく思えた。僕の「インドが好き」は何か大きなものを感じ始めてはいたが、まだまだただのミーハーだったからだ。ゆり子もたかちゃんも、世の中誰もが大好きなことには真摯に向き合えている。と思うとまた疎外感で胸の奥をチリチリと痛ませた。僕は尚更インドへの想いを強めていった。
ゆり子とりえちゃんは普段よりも少しお酒を飲み過ぎたみたいで、二人で僕のベッドで重なるように寝てしまっていた。
「みなみちゃん、ゆり子ちゃん良い子だね」
「あ、うん……」
僕は曖昧な相づちを打った。
「みなみちゃんはこの先ゆり子ちゃんと結婚とか考えてるの?」
「どうだろう……」
と僕の表情が少しだけ固くなったのを感じ取り、たかちゃんはその質問をやめた。
終電時間もぼちぼち近づいて来たころ、たかちゃんはりえちゃんの耳元に口を近づけて、
「ねえりえちゃん、そろそろ帰ろうか?」
優しく肩を揺らしながら言った。
たかちゃんは本当にりえちゃんのことが好きなんだな。そう思うと、また羨ましく思えた。
時計はもう夜の10時を過ぎていた。
外では名前も知らない虫たちが、ちりんちりんと小さく鳴いていた。

15分ほどの距離の駅まで4人で一緒に歩いた。僕とたかちゃん、ゆり子とりえちゃん、なんとなくそんな組み合わになり、二組になって狭い歩道を歩いた。僕とたかちゃんはあまり会話もせず静かに歩いていた。たかちゃんは何か考え事をしているようだった。後ろではゆり子とりえちゃんがまだ楽しそうにきゃっきゃとおしゃべりをしていた。僕は振り返りちらっとゆり子を見て、またすぐに前を向いた。
駅に着き、僕らは「うえーい」だとか「いえーい」だとか言いながら「またねー」とノリ良く改札で別れた。改札のホームの見える窓に行って、二人が車両に入っていくまで僕とゆり子は手を振った。走り出してしばらくすると、電車は暗闇に吸い込まれテールランプだけが浮き上がっていった。そのテールランプが、闇に吸い込まれて見えなくなくなるまで、二人でその光景をじっと見つめていた。電車を吸い込んだ暗闇は、今の僕の存在までも吸い込みそうな青く黒い闇だった。僕はゆり子のほうを見た。
「いこうよ」
そう言ってゆり子は少し真面目な表情で僕を促すように歩かせたあと、そのうしろを自分も歩き出した。背中からはゆり子の異変が感じられた。というより、ゆり子が僕の異変を感じ取っていたのだった。とんでもないことをしてしまう。そう思うと恐怖からか肩が小さく震えた。しかし僕はどうしてもゆり子に伝えなければならないことがあった。
改札を出て大きなロータリーを渡り、いつもの細い通りに出ると、ゆっくりと歩きながら僕の部屋に向かった。
たかちゃん達を見送った帰り道、僕らは何も喋らなかった。ゆり子はずっと僕の後ろを歩いていた。そして僕は歩く速さを弱め、歩きながらゆり子の隣に並んだときにこう言った。
「好きな子ができたんだ……」
僕は少しだけゆり子の方を向きながら言った。ゆり子はそのまま黙って歩いていた。「……誰」
ゆり子は少しだけ僕の方を向いて、一言だけそう僕に聞いた。
「ぼ、僕が昔つき合ってた朱里という子……の話し、覚えてる? その子が……」
僕がそう言いかけていると、ゆり子は静かに立ち止まった。それを見た僕は慌てて立ち止り振り返ると、ゆり子と向き合った。ゆり子はしばらく僕の方を感情に耐えて睨むように見つめると、みるみる目に涙が浮かぶのが見えた。その涙はこぼれず大きな留まりとなって奇麗に澄んだ。街灯の明かりがその浮かんだ涙の中を奇麗に照らすと、キラリと光った。とても悲しく美しい輝きで、その涙にはゆり子の魂のすべてが詰め込まれているような気がした。ゆりこはしばらく立ったまま僕を見つめたが、重力に逆らえずに大きな涙が流れ落ちた瞬間、人目もはばからずに前を向いたまま声を出して泣いた。もちろんゆり子がそんな風に泣くのを初めて見たし、人がここまで激しく泣くのを僕は初めて見たような気がした。道路の反対側を通る人が少し立ち止まってこちらを見て、しばらくするとまた歩き去った。
僕は立ったまま、泣いているゆり子をただただ見ていた。何も声をかけずに……。遠くに、救急車のサイレンが小さな音で聞こえていた。肌寒い夜だった。
僕は自分の人生を自分で壊していることに、何も気がつかないでいた。

つづく

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