小説「チェリーブロッサム」第13話

   * 朱里                          
 
                          
 高校を卒業してしばらく経った頃、僕は19歳にして生まれて初めての彼女ができた。当時ミニバイクが走るサーキットでアルバイトをしていて、そこでは家族連れでサーキット走行を楽しむ人たちが大勢訪れていた。その家族の中で一組だけ女の子のライダーがいた。その子は朱里(あかり)と言って、僕より3歳年下の高校生だった。毎日ご飯たべているのか? と思うくらいほっそりとしていて背が高く、手足もやたらと長かった。その手足の長さを存分に利用し、誰よりも器用にマシンをコントロールさせていた。スムーズで無駄のない美しいなライディングフォームとライディングテクニックは、すでに熟練の域に達していた。彼女は高校生になるとすぐに、ロードレースが行われる筑波サーキットでもレースに出場していて、その名前を上位に見ることができていた。男性ライダーでも彼女より速く走るのはそう簡単な話ではなかった。
 レーシングスーツを脱ぐとまだまだあどけない高校生で、その日は学校の用事のあとにサーキットに来たらしく、めずらしく制服姿だった。膝よりもだいぶ短いスカートからはしなやかにほっそりとしたした足が延びていて、紺色のラルフローレンのソックスを履いていた。街で見かけたのなら必ず振り返ってしまいそうなのスタイルの良さで、サーキットに来ていたお父さん達の目を惹いていた。朱里は小学生の頃からポケットバイクの世界では名を馳せていた有名な女子ライダーで、中学進学と同時にポケットバイクよりもだいぶ大きいサイズの、50ccのミニバイクを与えられていた。彼女は背も高く、体格的にももうポケットバイクでは無理があったのもステップアップの理由だった。今ではミニバイクレースの世界では、その速さと見た目の端麗さもあり、雑誌にも良く載る一目置かれる女性ライダーだった。その端麗さからは想像もつかない技術の高いライディングとスピードで、日本各地のレースで連戦連勝を繰り返していた。
 朱里は可愛い顔というカテゴリーではなかったが、一重で切れ長の目は一瞬怒っているようにも見える時もあったが、この歳でアジア人特有の神秘的な美しさを魅せていた。性格は陽気な妖精のようなつかみ所の無い不思議な存在で、はっきりと物を言う彼女とまともに話しが出来る人はめずらしかった。それでいていつでも人を引き寄せる魅力を放っていた。
 そんな彼女はなぜか僕にとても懐いていて、走行が終わるといつも僕が座る受付の前に来てはよく話しかけてきた。僕は彼女ほどのタイムは出せないでいたが、ライディングの観察の目は優れていて、アドバイスには定評があった。僕のアドバイス通りに走行ラインを調整すると、大抵のライダーはタイムを上げた。それ以外にもギアチェンジのタイミングだったり、ブレーキをかけるポイントだったりと僕はその筋で人気があった。
 しかし朱里が僕に近づいてきた理由は、アドバイスが欲しいだけではないのは明らかだった。そして僕もすぐに彼女に惹き付けられた。朱里の父も昔はこのコースで朝から晩まで走る、根っからのライダーだったと言う。僕は実際に走る姿を見たことはなかったが、かなりの腕前だとオーナーから聞いたことがあった。僕はいつも「たまには走ってくださいよー」と言っても、朱里の父は昔筑波サーキットで両足を折る大けがをしてからは一切乗ってはいないらしく「むりむりっ」といってはいつもはぐらかしていた。それでも朱里が乗りたいということを止めなかった。自分がやりたいことをやって自由に生きて来た。そこには一切の後悔もなく今までの半生を謳歌できた。だからこそ娘にも同じように「自由にさせてやりたい」が彼女の父の口癖だった。けれど彼女が危ない走りをした時は、まわりが引くほどに厳しく叱った。以前ミニバイクに乗りたての頃、朱里が走りながら他のマシンのテールを手で掴むというおふざけをしていた時は、ヘルメットの上からとはいえ、本気で何度も殴っていた。朱里の父の仲間で、同じような行為で事故をして死んだライダーがいたようだ。朱里の父は僕にも優しく厳しくアドバイスをくれる良き先輩ライダーだった。「娘に手を出すなよ」が朱里の父のもう一つの口癖だったが、僕はその忠告を破ることとなる。

 サーキットのオーナーが、身近な人を集めて食事会をするというのがこの職場の習わしだった。サーキットの収益も、最近のバイクブームに乗り、想像以上に良かったようで、少し規模を広げてお客さんも呼ぼうということになっていた。参加人数が多いうえに、お客さんも招待しているということで馴染みがあって集まりやすいこのサーキットの敷地を会場にして、ケータリング料理なんかでパーティーをすることになっていた。食事会当日、僕は会場設営やら物資の購入搬入に奔走していた。スタッフが足りないこともあり、今回は朱里の家族や常連達が朝から準備に加わってくれていた。大きなワンボックスのトランスポーターに乗って、朱里が父とともに現れた。荷台にはいつもなら2台のマシンが乗っているはずだが、今回は屋外用のテーブルやら椅子やらが満載になっていた。
「おはようございまーす」
 僕はまず礼儀として運転席側の朱里の父に挨拶をした。そして助手席から朱里が降りると、運転席側に来た。
「いえいっ」
 と僕は朱里とハイタッチをした。なんとなくのいつもの挨拶だったが、朱里の手のひらに触れる度にいつもドキッとしていた。
 荷物を会場のピットボックスまで運んだあと、オーナーに買い出しを頼まれた。
「誰かと一緒に酒屋まで飲み物取りに行って来てくれないかな? けっこう量があるからさ」
「りょうかいです!」
 と僕は小気味よく返事をし、そして朱里を見た。
「まじですか……」
 と朱里は声のトーンを下げながらも、嬉しそうに言った。
 僕は朱里とサーキットの軽トラックに乗り、山から降りてすぐの小さな酒屋にビールやらジュースやらを取りに行った。酒屋はいつも馴染みのある店で、僕と朱里が並んで入ってきたところを見ると
「あらお似合いね」
 と女将さんがウインクしながら言った。
「そ、そお?」
 僕はおどけて応えた。しかし朱里は後ろで無表情で立っていた。
「わらっとけよ」
 と僕は朱里に冗談まじりに言うと、
「ふふふ」
 と朱里は小さく笑っていたが、彼女がなにを考えているのかはよくわからなかった。しかしそれはいつものことだった。
 サーキットに戻ると準備も半ばだったが、会場は馴染みの人たちですでに盛り上がっていた。ビールの箱を抱えて戻る僕らを見たおじさん連中は、早く来いと手招きで呼んだ。 
 おじさん連中は、氷の詰まったクーラーボックスにビールをどかどか入れていたが、入れた側からもう飲み始めていた。お調子者グループのライダー達は、すでにビールかけなんか始めていて、全身をびしょびしょに濡らしていた。僕はまだこの頃ビールの味なんか分からなかったので、一通りの準備が終わると、いつも通り受付に来て、いつも通りの席に座った。僕は人ごみやら人の盛り上がりの場が苦手だったから、いつもの落ち着く場所で会場を見ながら、アルミの皿に乗った焼きそばとウーロン茶で「1人宴」を楽しんでいた。 
 僕はこんな1人の場が根っから好きだったみたいで、寂しいとかいう気持ちはあまりなかった。それでもこのサーキットの職場では、僕は自由にのびのびとできる場所だったし、走りに来るライダー達も、みな広い心を自由に謳歌する人種の集まりだったので、サーキットはいつも個性を尊重する空気に満ちていた。ここ以外でこんなにも自由に振る舞える場所なんて僕にはなかった。なので僕は気を張ることもなく、いつものように好きなようにして過ごした。オーナーもそんな僕をみんなと同じようにいつも尊重してくれていた。
 しばらくして食べる物もなくなった頃に、外の窓から「トントン」というノックが聞こえた。朱里だった。
「みなみさん1人ですか?」
 朱里はいつものように受付越しに座り僕のお皿を見た。
「寂しっ!」
 朱里はちょっといたずら気味に言った。
「おれ、やっぱりああいうの苦手でさ」
「あかりもですー」
「おまえもかいっ」
 二人でけらけらと笑いながら、バイクのことやら学校のことなんかのおしゃべりをした。
朱里は人に対して気を使わない性分だったので、僕もなぜかこの子には気を使わないずに接することができていた。

つづく

FacebookTwitterGoogle+PinterestTumblr