小説「チェリーブロッサム」第10話

* 僕にはいない 
                       
「みなみ」親がどうしてこの名前を僕に付けたのかは聞いたことがなかったが、父親が決めた、ということだけは聞いたことがあった。僕は小さい頃からこの名前が気に入っているわけでもないし、嫌いなわけでもなかった。ただ僕の名前は「みなみ」それ以上でもそれ以下でもなかった。

両親は僕が幼稚園に行く頃にはすでに離婚をしていたようだが、それでも父は事あるごとに家に戻り僕らと一緒に暮らし続けた。父も母もお互いになかなか気持ちの整理も付かなかったのだろう。そして二人の間に何があったのかはなんとなく想像はつくけれど、実際のいきさつは直接聞いたことがなかった。僕は興味もなかったし、聞こうという発想もなかった。二人の性格や雰囲気ややり取りを見ていると、おそらく父が何かをやらかし、母が責め、それで夫婦が崩壊した、という所なのだろうが、それは想像でしかなかった。しかし父にはギャンブルでの借金があったことだけは知っていた。それと保証人になった借金もあるようなことも聞いた気がする。まるで安いドラマの家庭内トラブルのような、3流脚本家でもなければ描かないような筋書きの不幸エピソードだった。
 夫婦喧嘩で二人が発する言葉はいつだって「金」のことばかりだったし、それは離婚するには十分すぎる理由ではあるのかもしれないが、子供の僕に取ってはそれは迷惑でしかなかった。そのせいか母は僕が稼ぐお金にたいしても目を光らせた。つまりは僕からいくら取れるのか。そればかり考えていたようだ。母が僕に声をかけるときは、ほとんどが僕が払う母へのお金のことばかりだった。母は今でもずっと再婚もせず一人で暮らしているが、今の生活が寂しいのか寂しくないのか、雰囲気や様子からではあまり分からなかった。ただ僕や姉に、いや姉にはどうかわからないが、無関心であることには変わりなかった。僕はなぜもっと早くから家を出なかったのか、後悔とも言える念のようなものを感じていた。僕は母を恨んでいた。

僕ら姉弟はしばらくは両親が離婚したことなど知らずに暮らしていた。小さい頃の記憶の中では、母はいつも父の文句を言っており、頻繁に夫婦喧嘩が繰り返され、皿は飛び交いタンスは倒れた。僕ら姉弟は危険を感じ、自ら家の外に避難して小さな庭に佇むしか無かった。そして僕ら姉弟は、庭に二人で並んでその喧嘩の様子にじっと視線を合わせる。夜になろうとしていた庭先には、部屋の明かりが差し込み、そして僕らの姿は夜の闇に包まれ出す。埃を被ったまばゆいペンダントライトの下で二人が激しく争っている。そんな光景がはっきりと目に映った。姉と僕はただ黙って喧嘩が収まるのを待つしかなかった。
 父の留守中に、父の何かの失態に対して怒りが収まらない母は、父の服をハサミで破り、袋にまとめて放り出した。そんな母の怒りの光景が、僕の当時の日常にはいくつも転がっていた。そして母は僕に幾度となく暴力を振るった。僕が当時よくいたずらをしていたことも原因かもしれない、母の財布からお金を取ったこともあったし、近所のスーパーで万引きをしたこともあった。怒られてもそれは仕方がなかったことかもしれないが、僕がなぜそこまで平然と悪事を働けたのか、今となればわからないでもなかった。環境が悪すぎる。僕を守ってくれる存在なんて誰もいなかった。けれど母のお仕置きは手で叩くわけではなく、ほこりを叩く細いはたきの柄で、僕の半ズボンから出ている太もも辺りの素肌をひっぱたく。その痛みはとてつもなく激しくて、そして怯えるような恐怖を僕に植え付けた。僕は怖くてしかたがなくて、いつだって敬語で「止めてください! 止めてください!」と叫び必死に謝った。そうして僕は母に服従していった。僕に母親はいない。

父は何度も蒸発を繰り返した。時折家に戻ってきても、またしばらくすると行方をくらます。僕は父のことがとても大好きだった。面白くて楽しくてユーモアの固まりのような人だった。いつも言葉には洒落が利いていて、いつも僕ら姉弟と遊んでは「うきき」と笑わせてくれた。僕は父と一緒にお風呂に入るのが大好きで、そんな時父は「いつもお前のことを考えている」とタイル貼りの湯船の中で、視線を向き合わせながらそんな言葉を言ってくれた。僕は黙って聞いていただけだったが、とてもその言葉が嬉しかった。しかし父は何度か蒸発を繰り返したあと、僕が中学に上がる前にはすでに「もう戻らない人」となっていた。それ以来会父と会うことはなかった。
 ある日学校から帰ると父の気配がない。何の前触れも無く、何の言葉もなく父はまたいなくなる。僕は悲しい気持ちになる。そしてまたある日突然帰って来ては僕の気持ちを掴む。そしてまたある日突然消える。僕は父から沢山の愛のある言葉やユーモアを貰ったが、同時に「裏切り」も数えきれないほど持たされた。僕は次第に父への楽しい思い出を、ページを破り捨てるように一枚ずつ火を付けて捨てた。最後は燃やした灰だけが残り、そしてその灰は舞い上がった風に乗って僕の全身を包んだが、すでにもう何も感じなくなっていた。そうして僕は二度と会うことの無い父への思い出も、心の奥に閉ざして行った。そうして父は完全に実体のない存在になっていった。僕に父親はいない。

大人になってから心理療法を受けたとき、その小さい頃の気持ちを思いだ出そうと誘導してもらったが。「何も感じない」そんな言葉を言いそうな小さい頃の自分が見えた。その自分は真っ暗な部屋の窓際に小さく座っていて、部屋にはテーブルが一つあるだけだった。さらにその小さい自分を観察していると、僕の顔が突然噛み付く猛獣のような恐ろしい表情になった。僕は体を2、3度小刻みに揺らし怯えた。そこで怖くて意識を外した。それをカウンセラーの先生に伝えると、先生は僕の気持ちに寄り添ってくれて、言葉をかけてくれた。「小さい頃のあなたはとてもよくがんばりましたよ、辛かったですね」そう言ってもらうと僕の気持ちはひとまずの落ち着きを取り戻した。
 あの当時の自分は何も感じていなかったのか。あれほどの凄まじい喧嘩を日々見せられて、何度も何度も叩かれて泣いていたのに、心の奥では何も感じなかったのだろうか。いやそんなはずはない。しかしあの頃の自分の気持に立ち返ってみても、おかしなことにおびえたり悲しんだりという種類の感情ではなく、むしろ喜んでいた……、それも違和感があるが、おかしな感情を感じる。当時の厳しい日常を見ている小さい頃の自分が、まったく辛い感情を持っていないのかもしれない、そんな想いを感じ取ってしまうなんて、もしかしたら今の自分に問題があるのだろうか。いや当時の自分は、もしかしたらもうすでに何か壊れていたのかもしれない。しかし今の自分はあの頃の自分の延長であり……。どこでどのボタンが掛け違えられたのか、それはもしかしたら永遠にわからないことなのかもしれない。あの猛獣のような恐ろしい顔をした僕が何かを物語っている。それは確かなはずだった。僕は自分の心に苦しんでいた。

つづく

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