小説「チェリーブロッサム」第11話

* ゆり子の夢                          

たかちゃんといつものミーティングをしたとき、一冊の「フライト」という旅行雑誌をお土産に持って来てくれた。9月号と書かれていたその表紙には、大きなゴシック体で「Dear INDIA」とデザインされてあった。「鹿? 鹿とインディアンの話か?」インドの民族衣装を着た壮麗な女性が、頭に大きな樽を担いでいる写真なのに「インド」という発想を全く持てず、本気でそうたかちゃんに聞き返したのだ。
「なんだ? 鹿とインディアンが戦うのか⁈ なあたかちゃん教えてくれ!」
 僕はまた暴走し、目の前のたかちゃんに詰め寄った。
 こうなるとそれは天真爛漫というより、ただのめんどくさい男だった。たかちゃんは「落ち着いて」と笑いながら僕をなだめたが、声も届かない様子にめんどくさくなったのか、たかちゃんは、「もうーインドインド! なますてーのインドよっ!」と笑いながらさらに僕をなだめてくれた。
その行を思い出す度に、二人で大笑いし店員ににらまれた。仕方なくまたビールのお代わりをした。その日を切っ掛けに、僕はインドを夢見るようになっていく。
たかちゃんに貰ったその「フライト」を毎日のように熟読した。それから僕はインドに心酔するようになり、沢山の本を読んだ。ゆり子もとても協力してくれて、ことあるごとにインド関連の本をお土産に持って来てくれては一緒にページをめくってくれた。ゆり子は誰かの為に約に立つことが何よりの喜びなのだと言う。ある時ゆり子は将来についてこうも言っていた。
「わたしはいつかヤマハのレーシングチームに配属されて世界を転戦してみたいの。そして世界中のバイクとレースに触れ合って、チームという一体感や繋がりを体感してみたいの。けれどその職は現場の流れからもいってそれほど長くは続かないわ。レースシーンでは常に新しい人材が求められているの。もちろん良い意味でね。そしてその職を降りた後には、子供達の為にその知識や経験を生かしたいの」
 そう熱く話してくれた。しかし「世界」とか「レース」とか「子供達の」など、僕には遠く関連のないような言葉の連続に、僕は少し彼女との距離を感じてしまった。おそらく僕のことが、その話しには何も関係のないような言いぶりだったからかもしれない。いつかゆり子は僕から離れていく、いや離れたいんだ。僕の歪んだ翻訳機はそう理解した。それはとても幼稚な嫉妬だった。いや、幼稚園児でももう少しまともな嫉妬をするだろう。素直な嫉妬を。僕の素直じゃない気持ちは、鉄のような頑さだった。裏を返せばゆり子のことが羨ましかった。仕事も順風満帆で人望も厚く、可愛い容姿に父親は世界的なレーシングチームの指揮官。言葉を並べてみると、もはやどう羨んでいいのかも分からないほど、何もかもが違った。
 これだけ僕に関心を向けてくれている彼女に対し、嫉妬など決してしてはいけない。といつも頭の中のどこかを強くつねっていたが、彼女との溝を作っているのは誰でもない、僕自身だった。僕の心はいつだった不自由だった。
しかし彼女の想いは当然違った。その将来の目標の話しを僕にした、ということが彼女の今できる最大の意思表示だった。もちろんゆり子は僕と一緒に世界中を転戦したいと願っていた。それは簡単に口にできるような言葉ではもちろんない。ゆり子は僕の人生、僕の仕事。すべてを考えてくれていた。そして二人が一緒に世界を転戦する時は当然「結婚」という女性として最大の憧れも含まれているだろう。
ゆり子は自分がヤマハという大企業の元、レーシングチームの現場に配属されて働いていれば、経済的にも十分二人で悠々と世界を転戦できる。そう考えていた。実際、特にヨーロッパ系のスタッフは、どのチームでも多くが家族を連れて転戦をしていた。家族の転戦費用もチーム、つまりは会社から支給されるからだ。もちろん男性女性に限らずに。ゆり子はいつも父から、チームクルーの家族のエピソードを良く聞かされていたようで、そんな夢を膨らませていたのだろう。
日本ではなかなか女性が家族を連れて行くということに理解はなさそうだが、グローバルな意思価値観を持つ彼女にとっては、当たり前の選択肢なのだろう。
彼女がレースシーンに立つということは、彼女にとって何よりの喜びであり夢でもあり、確かな目標であった。それを愛する家族と一緒に体感したい。至極真っ当で輝いた夢であり大きな愛情であった。同時に世界中を巡ることもでき、ありとあらゆる価値観や文化を感じられる、一生に一度あるかないかの最高のシチュエーションなのだ。
そしてそれは彼女に取ってはもう夢ではなく、手の届きそうな所にある確かな現実でもあった。彼女はそれほど優秀な技術者だった。しかし僕の不自由なプライドをゆり子はよく知っていて、そのうえで温かく接してくれていた。女の仕事に男を付き添わせる。それは僕のことを傷つけてしまうだろう。そう考えていたようだ。そんな彼女の優しさや深い愛情を理解できたのはずっと先のことだった。この時は頑固な嫉妬に包まれた、ただの勘違いポンコツロボット野郎、型式名「あんちくしょう」だった。ださい。そう僕はどこまでもださかった。僕はどこまでもださい、あんちくしょうだった。

つづく

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