小説「チェリーブロッサム」#3

* 出会い

出会いは突然やってきた。出会いといっても、身体の裏と表が逆になってしまうくらいの勇気を振り絞って頑張った、僕の『手柄』であった。その勇気の手柄は、僕の人生の舵を大きく切ることとなる。
ある日の昼休みに、僕はいつもは行くことの無い社屋裏手の駐車場を通った。その傍らのベンチに座り、熱心に雑誌を読む一人の女性がいた。制服ではなくかわいらしい私服だったので、外部の人間か? と一瞬誰なのかわからなかったが、近づいてみるとすぐに誰だかわかった。僕とは別の部門の花形で腕を振るっている、華奢で小柄だけど仕事ぶりはエネルギッシュ、同僚や部下にも面倒見の良い、芹澤ゆり子だった。いつも小さくクスクスと笑う表情がかわいらしくて、その人柄から、誰からも愛される美しい存在だった。僕も彼女の存在は知っていたが、話す機会なんて一生あるわけないと思うくらいの高嶺の花だった。
彼女はまだ27歳と職人としては若かったが、加工の技術の腕は社内でもトップクラスだった。つまりは、日本トップクラスの腕前ということになる。彼女は僕より二つ年上なだけで、すでに大勢の部下のいる役職についていて、加工の中枢である最終仕上げの部門で活躍をしていた。この部門のリーダーは、チームワークとバランスの良い人間性が求められていた。しかし、何より技術の高さと情熱が必要な部門だった。
彼女は専門学校を卒業し、新卒でこの会社に入社したようだったが、すぐに頭角を現し、ありとあらゆる技術をスポンジのように吸収していった。人望もあってみんなからも慕われており、それでいて鼻につく所など何もなかった。え、そんな人いるの? 僕はすぐに得意技「自分と比べる」を放った。とても残念な気持ちになった……。

視界の端でベンチに座る彼女を凝視すると、女性にしては珍しい雑誌を読んでいた。それは『ライデイングサウンズ』というバイクの雑誌だった。国内で唯一の二輪のレースを専門的に扱う雑誌だった。
僕は根っからのバイク好きで、高校を出たころはミニバイクが走るサーキットで働きながら、暇さえあれば借りたマシンを思い切り走らせていた。走る度にマシンを壊し、いつも修理代に困っていた。金なんて要らない。という先輩ライダーがほとんどだったが、律儀な僕は一生懸命返そうとしていた。律儀だけが理由ではなく、僕はお金には対しては、得体のしれない恐怖心を持っていた。借りたままなんて、背筋がぞっとしたのだ。
そこで走るミニバイクライダー達は、雑誌にも載るような達人の面々で、恐ろしい角度にマシンを倒し、恐ろしいスピードでコーナーを駆け抜けていた。僕は普段、テレビでバイクレースを見るのが、唯一と言っていいほどの趣味で、そのためにCS放送のいくつかのチャンネルを契約するほどだった。そしてサーキットで走ることは、何よりも夢中になれる「好きなこと」だった。
『ライディングサウンズ』は、僕が必ず毎月熱心に読んでいる雑誌で、必ず毎月、いや隔月、いやいや数ヶ月に一度、……年に1、2度ほど買う雑誌だった。
しかし、買わない月は本屋で何時間でも立ち読みをし、何度も何度も誌面を往復しながら隅々まで読み込んだ。どんなページがあったのか、すべて言えるくらい夢中になって立ち読みをした。時にはめくり過ぎてページがふやけるほどの意気込みで熱心に読んだ。
毎月のように書店で熱心に熟読していると、本屋の店員も「ほほう、良く勉強をする若者だ。バイクレースが好きなんて大した者だ!」と感心しているようだった。その証拠に、僕の後ろをモップで何往復も床を拭き、時には僕の足にモップを当てるくらい、僕の読む様子を観察していたからだ。「お、なんだ? この僕の読みっぷりに興味があるのか? もしやこの人もライディングサウンズのファンなのか⁈ 話しかけてみようかな」僕は馬鹿だった。どうしようもなく人の気持ちがわからない。どうしようもなく場の空気が読めなかった。
僕は勉強熱心な若者、の意識のまま、ライディングサウンズを元の「ラリーWORLO」と「月刊バイク」の間に納めようとしたが、熱心に読みすぎたページの先が「ばさっ」と広がってしまい、元の鞘には収まらなかった。そこまでになって僕は初めて我に返り、事の重大さを認識した。「そうかあの店員さんは、この立ち読み野郎の僕にプレッシャーをかけていたのか」遅い、遅すぎる。僕は古典的に、左手を開きそこに握りしめた右手の腹で「パチン」と音が鳴るくらいに叩いた。書店を出てしばらくすると、後ろの方でモップを振り回した店員さんが何やら叫んでいた。空に大きく浮かんだ月は、僕が歩くと一緒に追いかけてきて、それを見た僕は「きゃー」と叫びながら小走りで家に帰った。走りながら僕は、次はどこの書店を訪れようかと考えを巡らせていた。

これはもう彼女に話しかけるしかない。僕はまず思考を回すペダルを「ぐん」と踏んだ。あの雑誌を読むなんてきっと話が合うはず。仲良くだってなれるはずだ。どんなページだって話しを合わせられるぞ。なんなら地方で走るアマチュアライダーの名前だって全部言ってやる。僕は、一世一代の大チャンスだ、と興奮した。僕は人とのコミュニケーションに苦しんでいながらも、彼女が欲しいという気持ちは、どんなネガティブさえも乗り越えた。
迷った。そうは言っても、そう簡単に女の子に話しかけれるような毛など僕の心臓には生えてはいない。つるつるだ!
雑誌を読む彼女を、確実に視界の端で捉えながらも勇気が出ず、一度はそこを通り過ぎた。その頃には、どうしても彼女に話しかけたくて堪らなくなっていた。
一先ず自分のロッカーのあるビルの方へはけよう。後頭部で彼女を凝視しながら、ビルの角まで来たところであくまで自然に身を隠すと、猛烈な勢いで振り返り、壁の端からこっそりと彼女の様子を眺めた。僕は彼女の姿をがっちりと捕らえたまま、腕を組んで考えた。まだ昼休みは30分ある。きっと彼女はまだしばらくいるはずだ。きっと今日が「ライデイングサウンズ」の発売日だからここで読んでいるんだ。ここでチャンスを逃してまた来月の発売日まで待つなんてそんなのはいやだ。「よし、話しかけよう」そう決めた途端、僕の鼓動は「ダダダダダッ」とハーレーダビッドソンのエンジンのように重く刻んだ。 あの雑誌を読んでいるんだ、バイク好きが話しかけてきたら少しは嬉しいはずだ。僕は「どさっ」という音とともに、心のブレーキを外して地面に捨てた。エンジンのキーを回し、力の限り右手を回した。唸りを上げるエンジン、血走る目!「もう誰もおれを止めれないぜ」マシンは唸りを上げ突進した。しかし、そんな茶番のツケは膝に来た。僕は緊張と興奮のあまり、あり得ないくらいに膝をかくかくと笑わせたまま彼女に近づいた。
「バ、バイク、す、すきなんですかあ?」
と、ようやく話しかけたものの、まともに喋れず不審者のようだった。会社の敷地の外だったら確実に通報されただろう。ブレーキを外してしまったことを、少しだけ後悔をした。しかしもう止めたくても止めれなかった。
「ぼ、ぼくもその雑誌が好きです、れ、レース好きなんですか?」
僕は多少まともなことが言えて、少しほっとした。そして彼女は、
「ええ」
とだけ返事をすると、黙って僕をじっと見た。「え? そ、それだけ? ど、どうしよう、想定外すぎるぞ、なんか言わなきゃ言わなきゃ……」僕が話しかけたら彼女の話が始まるのではと思い、話しかけたあとに次の会話の作戦を立てようと考えていたので、慌てふためいてしまった。しかしあまりに膝をかくかくとさせ、あたふたしていたからだったのか、彼女が話しを続けてくれた。
「オートバイがとても好きで、特にレースが好きよ。MotoGPのレースは毎回観ているわ」
彼女は僕を見つめながらきらきらと言った。子猫が人の言葉を話したならば、きっとこんな風に話すのではないか、というようなとても可愛らしい話し方だった。そして可愛らしさだけではなく、しっかりと芯の強さも感じられた。そんな素敵な話し方に感動し、僕の樽の全ての穴には彼女の剣が一瞬で刺さってしまった。僕の黒ひげは抵抗も虚しく見事に宙高く飛び出した。「ばいーん」と。
飛び出した黒ひげを拾って元に戻しながらも、彼女からの反応があったことでひっくり返りたいほど安心をした。バイクレースに多大なる興味を持っていることを確認した、これはもしかしたら仲良くなれるかも。そんな期待が少しづつ湧いてきていた。僕の恋の宝くじが一つづつ数字を合致させてゆき、その度に立派なファンファーレが頭の中で鳴り響いた。一等当選も夢じゃない手応えを感じていた。
近くで見る彼女の想像以上のかわいらしさは、僕の胸を甘く締め付けるように溶かした。
「あなたは?」
と彼女が僕に聞いた。
「じ、自分も、み、見てるよう、いや見てますです」
と僕はさらに膝をかくかくとさせ、言葉をうわずらせた。
彼女はきめの細かそうな綺麗な白い肌の頬に、新緑の木陰を映しながら、奇怪な返答をする僕を見つめ、くすくすと笑った。笑った彼女の頬には淡くチークが引いてあった。そして僕のとっても好みな、小さくつるんと上がった口角をしていて、まさに「ゆり子」という名前がぴったりな表情をしていた。
そんな表情を見て、僕はもうすでに彼女のことが好きになってしまっていた。あまりにも「高嶺の花」だった彼女と会話をするなんて、今までそんな発想すらなかった。しかし今、目の前にその彼女がいて、僕に視線を向けながら口からは言葉まで発せられている。な、何かしゃべらないと! 今日突然現実となり彼女の存在を認識できた途端、僕の彼女への『好き』は、一瞬であり得ない高さのバーを華麗な背面跳びで笑顔で超えて行った。しかし僕はまだ挨拶をしていないことに気がついて動転した! そしてそんな想いが入り混じった着地寸前、
「はじめましで、すぎでっ、ばっ!」
僕は慌てて喋りすぎ、舌を思い切り噛んでうずくまった。着地は失敗だった。 僕の恋の背面跳びは、いとも簡単に暴挙という高さのバーを超えてゆき、挨拶と告白を同時に行った。しかし着地に失敗し、「はじめまして、好きです」は、幸か不幸か彼女には伝わらなかったようだ。
「だいじょうぶ? ふふふ」
彼女は僕のドタバタを見ながら、可愛く笑って気遣ってくれた。「ここでうずくまっているわけにはいかない!」と気丈に立ち上がったものの、僕の膝はまだ激しくかくかくとさせていた。彼女は、激しく揺れている僕の膝を見たあと、くりっと可愛い小さな瞳を輝かせ、僕に向けてこう言った。
「今お産まれになったのですか?」
「は?」
何が起きたのかさっぱりわからなくて、僕の目は遠くの山に沈む夕日を慈しむように虚ろにまぶたを細めた。まるでこの人が何を言っているのか分からない、僕は何をした? 僕は一体何を見失った? どの教科書のどのページを見れば良いというのだ? 一体何が産まれた? 僕が一体何を産んだというのだ!
「はい、バンビと呼んでください!」
完璧だった。僕の返しは完璧だった。僕のスーパーコンピューターは帰りの燃料など完全に無視し、フルスロットルでこの局面を乗り切った。
そもそも彼女が放った「今お産まれになったのですか?」は、膝をかくかくさせている僕への華麗なる突っ込みだったのだ。子鹿のあの生命の誕生を思い出してほしい。必死に産まれた子鹿が足をガクガクさせながらも、猛烈な生命の強さですぐに逞しく立ち上がる。僕の膝は、まさに子鹿の誕生を思わせるような、「かくかく」だった。。
その僕の「バンビと呼んでください」という華麗なる返しに、彼女はキラキラとした目をさらに輝かせた。シャレの分かる人だった。彼女は少し顔の角度を変えるような仕草で僕を見上げた。
「面白い人ですね。ふふふ」
僕は頭の先からつま先まで、全身が真っ赤になるのをありありと感じた。顔に関しては完全に『リンゴ』と表現した方が早いほどだった。
「あ、あなたのほうが、か、華麗なる、つっこみ、でぶゔぁっ」
とリンゴはまた舌を噛み、やる気は空を切った。噛んでしまった舌が取れていないことを確認した僕は、ジェントルに質問をした。
「そのざ、雑誌、ラ、ライディングサウンズですよね? お、おぼびろいですよね?」
僕の言葉は見事に壊れていた。汗びっしょりの姿で彼女の雑誌を覗き込む僕の姿は、ジェントルから2万キロは遠かった。次に発した彼女の右ストレートの発言は、僕のこめかみをえぐるように叩き、足下を激しくぐらつかせた。
「レースってわくわくするわよね。わたしの父が運営をしてるチームが、先月のMotoGPのイタリアグランプリで優勝したの。これよ」
はぁ? ゔぁ? 僕はまたパニックになった。彼女があっさりと指を刺したページで、見事なウイリーを決めながらゴールラインを過ぎ去るマシンとライダーを見て、僕は驚きのあまり、少し痩せて……そして縮んだ。
そこに写っていたMotoGPマシンは、世界の二輪界を席巻する日本のバイクメーカーの巨頭の一つ「ヤマハ」が作り上げた芸術的彫刻と呼べるほどの造形と、最新の電子制御テクノロジーが詰まり切った、サーキットで二輪を最も速く走らせることができる世界最高峰のレーシングマシンだった。値段にしたら1台数億円は下らないと言われている。そしてそのライダーは、過去9度も世界タイトルを獲得したヤマハレーシングチームのエースライダー、バレンティーノ・ロッシ。彼は世界中に圧倒的な数のファンを持つ、陽気でお茶目なイタリア人。そのキャラクターとは正反対の、悪魔のようなレース運びは、世界中のレースファンを幾度となく驚愕させていた。現役として走りながら、その存在はすでに史上最高の伝説となっている。まさに王の中の王だった。
「君もロッシのことは知ってるわよね?」
彼女は知的な表情をしながらも、あくまで優しく微笑みながら僕に聞いた。
「ろ、ロッシ? も、もつ、もちろん知ってますとも!」
彼女の目がほんの少しだけ大きくなりキラリと光った。
「ムジェロサーキットでのこのロッシの走りは、まるでロデオのようだったわ。暴れるマシンを外側の足の膝でうまく加重をコントロールして、縦横無尽に滑るタイヤも楽しそうにライディングしていたわ。見ていたわたしまで楽しくマシンに乗っている気がしたの。電子制御が極限までに発達されたマシンで、あれだけ自分と観衆を一体化させるライディングができるのは、ロッシの他には知らないわ。わたしはロッシのことがとても大好きなの。たとえそれが父が運営するチームのライダーではなかったとしてもね。一度日本で会った時は、彼はわたしを抱え上げて頬にキスをしてくれたわ。さすがイタリア伊達男ね。コースの外の彼はすごくチャーミングで優しいのよ。あ、ごめん、わたししゃべりすぎたわね。ふふふ」
と言って彼女は笑っていたけれど、僕のあごは外れっぱなしだった。「ヤマハが父さん? ゔぁ? ロッシがチャオ? ゔぇ?」僕はとてもじゃないがこの現実が受け止められなかった。僕はどんな表情を作れば今のこの状況に相応しいのか、全く分からないという無惨な表情を作った。僕の無惨な顔を見て、彼女はまたくすくすと笑った。しかし僕には到底笑えなかった。世界最高峰のレーシングチームを運営する指揮官の娘さまがここにいて、僕と話しをしている。何が起こっているのか、理解もできない。僕の膝は、さらに激しくかくかくと機敏に細かく揺れた。それはマナーモードクラスの振動のように、「ゔー、ゔー」と素敵なメロディのバイブレーションを放ちだした。その振動は大地を割り、地面を引き裂いた。僕の膝のかくかくは地面すら割ったのだ。僕は割れた地面の片側に、命からがら飛び乗って、もう一度この非常事態を解析しようとコンピューターをフル回転させた。しかし「ぷすん」と言って動かなかった。「ゔぁー」そうだった……。彼女の問い「今お産まれになったのですか?」のとき、僕はありったけの燃料を使ってしまっていたのだ。もはやこの船は大海原の「ゴミ」と化していた。僕の思考は太鼓判を貰えるほどの「ゴミ」となっていた。そんなゴミから出た言葉は、
「そうすか」
もはや感情を移入する力も残っておらず、棒読みするだけで精一杯だった。彼女の輝き、彼女の眼差し、彼女の家柄。どれをとってももう僕には防御する力など残ってはいなく、打たれっぱなしのサンドバッグと化していた。そんな彼女を見ながら心の中で「良いパンチもってんじゃねえか」と虚しくつぶやいた。
その神々しい家族背景をお持ちの彼女の全身を見てみよう。ヘアスタイルは、前髪のあるボブカットに奇麗にセットされており、全体はふんわりゆるめのパーマと主張しすぎないカラーが施してあった。襟足の左右の毛先はくるんと頬に向かってカールしており、後頭部は後ろ髪に隠れるように、小気味よく刈り上げられていた。服はふわっとしたサイズで、真っ白く襟の小さいな麻のシャツのボタンを一番上まで止めて着ていた。下は濃い藍色の踝丈のゆったりとしたキュロットを履き、足下は素足で白いローカットのコンバースのスニーカーを履いていた。僕は一瞬で彼女の全身をスキャンした。「こ、好み……」とうっとりと見取れた。
彼女は南青山辺りにでもありそうな、おしゃれなインテリアショプで働くお姉さんのようなスタイルで昼休みを過ごしていた。多忙を極めていた彼女は遊びに行く暇もなく、昼休みにたまにおしゃれをするのが小さな楽しみなのだと、あとになって聞いた。そんな彼女にのぼせた僕は、両耳から耳血を垂らした。
「テレビで毎週見てるのよ」
「…………」
「ねえ?」
彼女が優しい表情で僕の顔を覗き込んだ。
「ゔああ、あわわわ、はいっ」
僕は意識を失いかけていた。あまりに非現実な展開に、僕はどうして良いのか解らなくなり、脳が活動を停止してしまわないように必死に抵抗をしていた。
「何度も行きたいと言っても、父はなかなか現地へは連れて行ってはくれないの『女が来る場所じゃない』なんて言うのよ。女性のスタッフだって沢山いるのに。わたしはいつかヤマハでレーシングエンジニアになりたいの」
と彼女は話し、さらに衝撃的な事実を僕に告げた。
「わたしはね、実はヤマハの社員なの」
「え? へ?」
僕は「え」とも「へ」とも取れないようなリアクションをした。
「ふふふ、そうよねびっくりするわよね」
彼女は僕が驚いたことで、僅かに満足げな表情を浮かべた。
「わたしはヤマハのレース部門の会社に入社したの。いわゆるヤマハワークスよ。この雑誌を読んでいるならわかるわよね、ヤマハレーシンングチームを運営する会社よ」
僕は上下に頭を大きく何度も振った。
「え? じゃぁ……?」
しかし僕の頭の中は「?」で一杯になった。
「ふふふ。聞いて」
僕の反応が思った通りだったようで、彼女は嬉しそうな表情をして、少しだけ微笑んでから話しを続けた。
「しかし父は気に入らなかったのね、わたしが内緒で試験を受けたことが。もちろん試験で父の名前なんて言わなかったわ。自分の力だけで内定を取ったのよ。わたしは専門卒だけど、大卒まですべて含めても、女性で内定が貰えたのはわたしだけだったわ」
彼女の言葉には「自分の行動は間違いではない」という実直な想いが感じられた。
「そ、それはすごいです、ね」
「ありがとう」
と彼女はにっこりとしながら言った。
「だけどわたしのその行動に父はかなり怒って、採用の責任者にまで食ってかかったの。だからといって正式に内定した人間の結果を破棄にする権限も父にはなかったわ。わたしは父に『バイクレースのエンジニアになりたい』って言ったの。一ヶ月後父はわたしにこの会社への出向を言ってきたわ。父はもちろんわたしが憎くてそんなことを言ったわけではないのよ。レースの現場では経験と知恵と体力がいる。父は自分が一番それをわかっていて、ヤマハにいればもちろんレースの最前線で一流の仕事ができるけど、その地位にのぼせ上がって駄目になったエンジニアを何人も見たって言うの。わたしも勉強になると思って、ヤマハワークスのマシンのパーツの加工も引き受けている、この会社に出向。という形で勤務しているの。金属加工のすべてを知るのは、マシンを設計する上でも計り知れない経験になるのよ」
「そうだったんですね、ゆり子さんなら立派なエンジニアになれると思います!」
僕は初めて噛まずに話せた。
「きみは確か強度テスト部門の子よね? わたしの名前知ってくれてるのね?」
「え、あ、はひっ」
名前を聞いたわけでもなかったのに、事前に知っていたことがわかってしまい、とてもきまずかった。そして彼女が僕の存在を知っていた。という事実に、僕の心はときめいた。
そのあとも、昼休みが終わったことにも気づかずに僕らはおしゃべりを続けた。部署の仲間が通りかかり声をかけてくれてようやく気がついた。
「おい、先に行ってんぞっ」
と言ってその彼は慌てて走っていった。
「いっけない!」
と言って、彼女は片目をつぶり朝ドラのヒロインのように慌てて雑誌を小脇に抱えた。その仕草がたまらなく可愛くて、また見とれてしまった。「いっけない」ってこういう時に使えば良いんだな。僕は変な所に感心していた。「いっけな……」さっそく練習をしようとした瞬間、
「いこう!」
と彼女が小さく叫び、僕らはロッカーへ向かって走り出した。新緑が萌える初夏の日差しがとても心地よく、彼女の顔に日差しと木陰を交互に映しながら、僕らは一緒に走った。
「あなた来週の日曜日空いてる⁈」
と彼女が走りながら聞いて来た。
「あ、はひっ!」
最後まで上ずったままの大きな声で返事をし、僕らは社屋に戻りながらも会話を続けた。彼女はお互いの部署に別れるまで、走りながらずっと笑顔を見せてくれていた。髪を揺らしながら走るそのボブカットの隙間からは、時折彼女のコケティッシュな瞳が見えてとても眩しくかった。そんな瞳に僕の胸はさらに甘く締め付けられ、走る彼女を見ながら心の中で、「きゅうん」とひたすら言い続けた。そして実際に「きゅうん」と口からも発してしまった。
「え? なに?」
彼女は走りながら聞いてきたが、僕は半分だけ笑ってごまかした。
その一ヶ月後、僕とゆり子は交際を始めた。

つづく

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