拝啓、イラストレーター辞めました。第二話

昔スノーシューでいった水上。マチガ沢の山の中の雪景色。

さらになかなか風景のシリーズが思うように描けなくなるにつれ、街シリーズは僕のイラストラインナップのエースになっていった。
「よ〜ばん、ぴっつちぃや〜 街田さ〜ん」エコーのかかったウグイス嬢もエールを。

そしてだんだんとフィールドは、広告雑誌ではなく施設関係へと移っていく。
大きな所ではKIRINの本社の2階の「ココニワ」という案内施設へ大きなマルチビジョンでのイラストの展開だった。
それは大掛かりな街の制作で詰め込んでも詰め込んでも終わらなかった。けれどアイデアは尽きず、最後は詰め切れないアイテムもいくつもいくつも。。。
「向いてるな〜」
とぶつぶつ良いながら描いていたのを思いだす。

しかし制作はかなりきつかった。修正ではない幾度ものやり直しがあり、描いた物がほぼ変更になるなど制作現場のディレクションは荒れに荒れた。
施工現場ではクライアントと施工デザインチームでまじ口喧嘩もあったらしい。
あまりにも修正レベルではないで「変更」(←こわーい)が多過ぎて施工会社のディレクターさんが菓子折りを持ち、わざわざ小田原まで来てくれるほどに。それには恐縮しておもわず背も縮んだ。125cmくらいに。。。

かくかくしっかじかを繰り返し、なんとか細かい部分まで完成した。苦しんだだけに、久しぶりに仕事で手応えを感じられた案件だった。
プレオープンではKIRINの企画陣と施工会社の製作陣の方々と完成披露パーティー。きつかったイラスト作成の苦労も帳消しになるような良い場だった。充実だった。
これからもこんな仕事をしたい。風景シリーズよりはるかに稼げるこのシリーズに僕はまた金に目がくらんだ。とはいっても労力以上の報酬とはなかなかいかないが。。。

こんな大きな名誉な仕事をしてしまったらこの後どんな引き合いが来るのか恐ろしかった。もう呑めや踊れやの満天依頼がざっくざくと来ると確信していた。

しかし電話はならなかった。←これは比喩。メールねメール。

よく聞く開店直後のレストランであまりに予約がないもんで、電話が壊れてるんだろうって、あれ、あんな状態。
メールの不具合かな〜。

受信。ぴこ。

ずらずらずらずら〜っとスパムメールがスッパスパ。思わず挟んで食べてしまいたいくらいのスパムの行列。
それでも信じたくなかった。もっと沢山の受注案件がわたしのエクセルシートには並ぶと確信していた。

来なかった。
な〜んにも。
「ココニワ」という新しい施設紹介のネット記事はいくらでも検索できた。
しかし絵の事などどこも触れていない。
街の絵はイラストだけではなく、アニメもからみ、それに対するアバターやらシーンアニメなど沢山描いた。
描いたよね?おれ描いたよね?思わず自分の意識を疑った。あれは夢か?
1年経っても2年経ってもそれにまつわる仕事受注は来なかった。
ま、そんなもんなのですね。
自分には仕事が仕事を生むということはとても少なかった。少ないというよりないに等しい。
「向いてない」
思わず振り向いた。
誰かに言われた気がして。。。

めげずに次にわたくしが取り組んだのが、周りの仲間が次々と成果を出し世間的にも評判となっていたクリエイターズエキスポ。
ずら〜っと小さなブースが縦横に並び、デザイン、印刷、出版、広告。ありとあらゆる業界関係者がすし詰めで行脚するし、あちこちで商談が繰り広げられると聞いた。その巷で噂になっていたクリエイターエキスポへのの出展を目指す事にした。
クリエイターズエキスポ。というワードが舌足らずな僕にはとても言いにくく、知人へ説明する時におもわず
「くりぇぃつたぽ」というどうしようもない発声に自分でも呆れて座っていたイスを後ろへ大きく倒し後頭部を強打させたいくらいのもどかしさ。
聞いていた知人が「なにそれー、くりえぽ??まったくも~何でも約せばいいと思って~、こら~」と言われる。
この下足らず焦り症候群はいつか直したい。ちゃんとしゃべりたい。(余談)

エキスポへ2回参加したうちの最初の出展。
僕はありったけの自分の実績をもって参戦した。
壁には実績を張り巡らせた大きなポスター、その中でもKIRINで描かせて頂いた大きな街のイラストは大々的に配置した。

「受けた」
おおいに受けました。僕の愛おしいイラスト実績。
てててーん、ててて~ん、てててて~
ぶおーくらは、いっちについて~♪
とまさにあの番組のタイトルのようにプロフェッショナルという称号を頂いたようにも思えた。実際はそんなこと全くなかったのだが、この時の僕ただただ浮かれた。

あれほどの業界関係者の来場者がひしめく中で僕のブースは混雑でもてなされた。
あり得ないと思っていた1000部の冊子の手渡しも完遂。実際に案件を仮約束して頂く方もいくつも。
きた、来た、北ー。そしてこっちは南!南ちゃん!←うるさい。
満足だった。ただただ満足だった。あれだけの関係者から手応えを貰い、再び急がし地獄を味わえると思った。
確かにいくつかのとてもとてもありがたく光栄な仕事を貰えたので出展の意義は思っていた以上に有意義だった。
その後最初のただ一度の盛り上がり。その後は鳴りを潜めた。
長続きはしなかった。

きちんとお会いした全員にお礼メールなど送ったりもしたのだが、その後の僕の対応も薄かったのかもしれない。その後の僕の発信能力がなかったのかもしれない。
この業界はやはり自分からガツガツがっつに発信していかないと、特に僕のような目立たない中堅イラストレーターはいつでもどこでも全開に動かなくてはならなかったのだ。(僕の場合は。。。)

そして2回目の出展に希望をつなごうと次回出展への展望を育む。
2回目の出展はまるで不発だった。ショックで思わず手をぶらぶら上下に揺らし「ちょうちょ~」とでも歌いたくなるくらいの。現実逃避。もう何度この仕事についてから逃避してきたか。アポナスティー。思わずな造語が頭をよぎる。
まぁ、アホなんです。あほですな。あほ。こんな愛おしいアホはまぁいないのですが。。。
アホな割には必死になんでも取り組むのですが、2回目は想像以上に成果がなかった。
冊子は大いに増刷し、今回は1600部きちんと手渡しで挨拶しながら渡した。
名刺も沢山頂いた。
イベント後のお礼メールもきちんと送信。
「あーやばい、どうしようあれもこれも確定したら家建つんじゃねーか、レゴでな。くははは」とくだらない脳内マヒナスターズな浮かれは止まらなかった。
なのに、なのに。だのに。。。
「だのにー、まーたー、なにを〜さが〜し〜て〜、きみわ〜」昭和懐メロも飛び出すほどがっくりした。
全く成果がでなかった。
唖然。あぜん。
【唖然】
思いがけない出来事に驚きあきれて声も出ないさま。あっけにとられるさま。
↑まさにこれ。

そして急降下なキリモミで仕事への意欲が無くなっていく事が手に取るように掴めた。鳥は空を舞い、蟻は地面に穴を掘った。そして私はビールのプルタブを倒した。呑んだ。酔った。

そしてその後半年ほど新規の仕事が来ないという異常事態。
焦った。ただただ焦ったのだ。こわいでしょ?
天下のイラストレーションファイルにだって毎年きっちり良い仕事を載せている。
エキスポだってあんなに冊子をお渡しした。
なのに、なのに。だのに。〜
「ま〜た〜…」繰り返す。

そしてこの頃の僕は描きたい。ではなく、描かねば。な状態。良いわけがない。良い絵が描けるわけがない。良い仕事が来るわけがない。世の中のイラストレーター達のあの手練のうまさは尋常ではない。脚光を浴びるような方達はもう世界レベルで見ても頂点に近いような表現力。こんな手先の、しかもねじ曲がったがんばりで見つけてもらえるわけがない。誰がそんな余裕のない押しつけの絵を求める物か。。。
好きで始めた仕事は今となってはどんどん僕の首を絞めていた。気がつかないくらいじわじわと。

苦しくて足下をふらつかせ、僕が頼ったのは大、大先輩イラストレーターの山田博行さん。
過去に営業のブレーキが止まらず、「うおーブレーキなんか嫁にくれてやったー」とかっこも良くないし、というかちょっと失礼じゃないか。嫁さんはブレーキ貰ってどうすればいいのか。ブレーキの先っぽのまん丸い部分で背中でも押すのか?こってるのか?背中こってるのか?
まぁいい、僕は止まりきれずに思わずイラストレーターの山田さんにまで営業メールを送るという失態を起こす。
僕は図書設計組合のデザイナー年鑑を見つけ、「それ営業~」と片っ端から全員に「こんなイラストレーター居ます。いつかお仕事させてください」と送ったのだ。

その頃の僕はイケイケだった。何がというとメールでの営業を覚え、片っ端からメールを送りまくっていた。東京から少し離れた所に済む貧乏イラストレーターには頻繁に都内に営業に行く財力もなく、手軽でしかも相手に迷惑もかけないメール営業に精を出していた。
都内全部のweb制作会社に同じ文面とはいえきちんと宛名を変え、一件一件メールを700件程送った。一日中がんばって一週間かかった。
そのような草の根運動が実り、それなりに反応も頂いて仕事もいくつも頂いた。レギュラーも頂いた。
web制作会社とあるが、社内では広告も扱う会社も多く、web以外の仕事もいくつもいただいた。

話を戻す。
その図書設計協会年鑑にはデザイナーさん以外にも装画家コンテンツもあり、僕は気がつかずに全員に送ったのだ。そしてありがたい事に山田さんから
「僕も絵を描きますので、仕事を提供する事は出来ないと思います。けれどこれだけ上手に絵を描かれているのでしたらすぐに忙しくなるとおもいますよ」
親切だ。親切すぎる。僕は上手と言われニヤニヤしてしまう。ま、単純なんですよね、単純。単細胞。そして勘違い平行棒はどこまでも勘違いだった。(正:段違い平行棒)

そしてその営業から数年後山田さんが主宰しているイラスト講座への入講を果たす。
半年間描いてかいて描きまくる。
そんな講座です。と。そして講義では30年近く一線で活躍している山田さんのノウハウを全て紐解いてくれるという。そして「10年くらいイラストレーターやるとみんなそんな風に一度仕事が落ち込んで悩む時期きますよ~」と気さくに言って頂く。そして「そんな人を立て直す意味も含んでいますので」と言って頂き、即決する。

そして講座ではドローイングをはじめ、ペインティングなどを描きまくった。
頭を何万回だってうなずきたくなるような営業方法、それ最初から知ってたらイラスト人生も変わっていたかも。の連続の講義。僕はあれを描いて楽しい、やっぱりこっち描いて楽しい。初めてかと思うくらい仕事以外で必死に絵を描いた。
しかし楽しくかけた課題だったものの、結局最後まで心から何が描きたいかわからないで終わってしまう。

講座修了後も仕事の荒波は続く。この十数年の仕事の中ではなかったような依頼の来ない連続月間。なんのキャンペーンだよ。応募シール集めちゃうぞ。思わず自棄になった。
波だよこれただの波だかだー。と、もはや人ごとに諦めかける。なにもかも。

家の近所の満開の夜の桜並木。こんな風に咲くつもりだった。ま、つぼみも可愛いよ。

そして描けなくなっていた風景シリーズを再度挑戦してみた。仕事以外で単純に描いてみようと。しかし自信はなかった。僕の数少ない恩師の中で、誰もが知る雑誌「イラストレーション」で長年編集長を務めた片桐さん。イラストに携わってこの方の名前を知らない人はいないであろうイラスト界の道しるべのような存在。

僕はイラストレーターとして安定して仕事をしてこれた最大の要員に、その玄光社が発行しているそれこそイラストレーターなら誰もが知っている「イラストレーションファイル」という年鑑。
大勢のプロのイラストレーターが掲載されており、あんな方やこんな方まで大御所、新人含み華やかな年鑑となっているのだ。日本中のイラスト案件を発注する方々がこの本から描き手を選ぶ。というパターンは業界ではもはや常識であった。僕はそこに掲載して欲しいと強く思い、何度も片桐さんに掛け合った。間を空けて3度くらい掲載お願いに伺ったと思う。ようやく承諾をもらい憧れのイラストレーションファイル掲載へとたどり着く。
掲載後は問い合わせが毎週のようにいくつもやってきて、僕は沢山の仕事のきっかけを頂いた。そして安定して専業イラストレーターとして活動を続けられた。もう到底足を向けて眠れないようなそんな存在の年鑑である。

そんな思い出のある片桐さんに最後に取り組んだ風景シリーズを監修していただいた。
メールでのそれほど多くないやり取りだったが僕は希望を持てた。
それをもってHBファイルコンペに応募し2次審査まで進んだ。元々イラストレーターという言葉すら知らなかった所からスタートした自分としては可能性のある健闘だった。2次審査とはいえ、そこにはあんなイラストエレーターこんなイラストレーター、知っている名前ばかり。ただただバイクに乗りまくっていた兄ちゃんが、思いつきで始めた絵を描くという事。そこまで到達するなんて。自分の中では満足だった。

HBファイルコンペは20枚のイラストファイルで応募し、応募者は800人近くあつまる日本でも屈指のイラスト公募。
しかしそんな光が見えそうな結果ももはや何かが力つきていた。片桐さんに監修をしてもらうという贅沢なシチュエーションを持ってしても、もはや末期な自分を立て直す事はできなかった。
風景を描く気力はもうなくなっていた。最後の振り絞りだった。

そして愛娘が誕生した。ぱんぱかぱん。
家中はフィーバーたいふーん状態。(おもにわたくし)無駄に「オーイエ、オーイエ」と謎の欧米化。心行くまで欧米ぶった。
子の誕生への歓喜は私の歴史の一番大きな出来事だった。外にまで聞こえそうなお囃子は家中に鳴りひびき、人々は飲み叫び、そして暗闇の中で乗った船の先々では、海賊は女を追いかけ砂浜には金塊を積んだ。妙に耳の大きな黒いでくのぼうがふらふら歩く遊園地のなんとかの海賊。のように。頭の中で。。。

娘の育児への忙しさを大義名分に掲げ、それはそれは大いばりで休んだのだ。
イラストから目を背けるように、可愛くてたまらない娘への育児に没頭した。楽しくて仕方がなかった。
「これも神様が休めっていってるぅんだねぇっ」と片足を膝から後ろに大きく振りあげ腰をくねらせた。
そしてそのなんとかの海賊の大きな船で進んだ最後、大きな坂を下り落ち、水しぶきをたっぷり浴びたその時我に還った。意識を取り戻した。はっきり視界に入った「おーらい、僕はきゅーとな不安君」おもわずテーマソングまで聞こえてきそうなそのキャラフィギア。なかなかの良い出来映えで立ちはだかった。良い造形だった。

そして大きく上半身を振りかぶりつぶやいた。
「これから先どうしよう。」
お、おい…の、のんきすぎるぞ。おまえ。本気か?

僕が風景を描けなくなったもう一つの大きな理由。
僕はずいぶん前から自分の心ということに向き合い、ずっと抱えて来た生きずらさ。そんな鉛をどうにか取り去りたいと取り組んで来た。心理学を中心に勉強をし、自分の胸のうちを覗いた。何年もの間取り組んだ甲斐もあり沢山の胸の内が満たされた。
がらりと見る風景が変わった。しかしそれでも取り去れない根強い部分もまだまだあり、心の旅は続いた。

風景シリーズを描いたきっかけは途中書いたように、自分が生きてきた喜び辛さ、楽しさ苦しさ。そんな目線で取り組もうと。
心のひずみは三蔵法師一行が向かったガンダーラまで続くような遠いと遠い苦しい道のり。旅。
悲しさに触れてこの絵を。寂しさに触れてこんな絵を。どこまでも、いくらでも表現ができた。生きづらさをバネに。自分の傷を癒そうとして。
そしてそんな想いで描いた風景は色々な角度から僕の心を癒してくれた。
僕はそんな心と絵のやり取りをとてもとても大事にした。

しかし絵とは別に取り組続けた自分の心。取り組みが進み次から次へと苦しさは取り去られた。まだまだ辛い引き出しを多く抱えているとはいて、僕は沢山の取り組みをした。沢山の本を読み、沢山のカウンセラーの価値観を知った。

振り返ろう(なんで?)
一番最初に心理が(だからなんで振り返るの?)心理学に触れたのは(聞いた?誰かが聞いて来たの?)結婚など?育児など?そんなこと夢にも思ってなかった時期。その時付き合っていた彼女。彼女も自分の心の辛さを乗り越え安定していた時期に大きな袋を抱えたさんたくろーす、いやさんざんくろーする(散々苦労する)な自分ががやってきたのだ。彼女は悲鳴をあげた。大変だったと今となっては謝りたい。そんな彼女が耐えられなくなり、
「カウンセリング受けてくれないならもう別れる」ぐさっ。ぐさっときたね矢沢にはさ。
「よーしうけてやろう!、で?だれに?」矢沢困ったね。
しかし彼女はカウンセリング先まで調べてすすめてくれた。
バイクで30分、料金も良し、行こう!
ててて、ててて、ててて、て~。
京都にでも行きそうな勢いで、僕はそのカウンセラーのドアを叩いた。正確にはぴんぽ〜んと指で押した。
実際は緊張でぶるぶる震えていたのだが。
かかか、かうんせ、せりんぐ???一体何がどうなってしまうのか。びびった。本気でびびった。
そして数回受けた後、どうしても、どうしてもこのカウンセラーと話すと傷つくし落ち込んだ。
2分置きごとに髪をかき上げるあの仕草、ぜんぜん話しかけて来ない、なのに「僕はこの手のアダルトチルドレン問題(もはやそんな言葉すら今は滑稽だが)得意なんですよ〜」ふわ〜。とまた髪をかき上げる。なんなんだよ。よしもう断ろう。
そしてこれからどう自分の気持ちと取り組もう。また迷いの森に歩き出した。。。

そうして僕の心の旅は始まった。

そしてとても信頼のできる心理カウンセリングにも出会い心理を深め、あとはセミナー、セラピスト養成講座、そして菅波亮介さんというカウンセラーから教えて頂いたヴィッパサナー瞑想という10日間の合宿瞑想。僕は10日間ただただ座るという合宿へも参加した。2500年前にゴーダマさんという仏陀が編み出した悟りを開く為の瞑想方法。全てが心理学と通じており、講話を毎晩聞くと人間は2500年前からも同じような悩みを沢山の人々が抱えきれずに生きてたのだな。という話ばかり。そんな大昔の人たちが身近に感じられ、ちょっと微笑ましかったりもしたのだ。

そんな沢山の取り組みは確実に効果を発揮した。僕は手が届かないと思っていた自分の心の苦しさの解放、そして次々に広大な苦しさの心の荒れ地を癒していった。あんな想い、こんな想い。あんなにもはびこった心で灰色に曇らせた生きずらさの抽斗。その抽斗たちは一つ一つ要らない荷物を吐き出し空にした。そして今度は好きな物を大事にしまい出した。やりたいことを入れ、やりたくないことを放り出した。人生は自由だ。

そんな心境に達した事で、僕が一番重要な位置に置いていた風景シリーズを描く為のアンテナを「癒し」という正位置な気持ちで一つずつ外していった。

第三話へつづく。。。

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